はじめに
臨床心理学とは何か

 日本において,ここ数年で臨床心理士の知名度は上がり,臨床心理学を勉強したい大学生や大学院生は増えている。しかし,日本の心理臨床学はこうした状況に対応できているのだろうか。1990年代から,イギリスやアメリカでは,サイエンスの部分が強化され,実証にもとづいた臨床心理学(エビデンス・ベースの臨床心理学)が構築されつつあるが,日本ではこうした動きは稀薄である。また,日本では,臨床心理士の国家資格も実現していないし,現場での養成制度も未発達である。
 臨床家は,おもに個人の心的世界を対象として仕事するので,広く世界の臨床心理学に目を向ける機会は少ない。しかし,臨床心理士の社会的責任や資格制度を考えたり,クライエントにとって真に有効な臨床実践とは何かを考えると,世界の臨床心理学に学ぶことがいかに大切かがわかってくる。
 筆者は,2000年に短期間イギリスを訪問する機会があり,イギリスの臨床心理学に接して,目を開かれる思いをした。それまでは,筆者が思い描く科学的な臨床心理学の姿は,日本においては異端であり,筆者ひとりの独断にすぎないのではないかという不安があった。しかし,イギリスの臨床心理学をみて,まさに筆者が求めていた心理学の姿がそこにあると感じた。しかもそれこそが世界の主流なのである。大いに自信を深めた筆者は,実証と実践の統合をめざす『講座 臨床心理学』(全6巻)を編集し,またイギリスの認知行動理論を紹介した『エビデンス臨床心理学』を発表した。
 しかし,短期間の訪問や文献だけでは,現場での仕事をなかなか理解することができない。そこで,筆者はぜひとも長期間滞在して,イギリスの臨床心理士の仕事ぶりを見たいと思うようになった。自費ででも渡英しようと思っていたが,幸いなことに,文部科学省の在外研究員として援助を受けることができた。こうして2002年8月から半年間,ロンドン大学精神医学研究所の研究員として,イギリスのシステムをつぶさに観察することができた。
 留学中の半年間は,筆者の人生で最も充実した時期であった。イギリスでは科学にもとづいた臨床心理学という理念が,現場のすみずみまで行き渡っていた。臨床心理士は相当な臨床的実力を持っており,医師と対等に活躍をしていた。臨床心理士はほぼ国家資格であり,それを支える養成制度も整っていた。知れば知るほどその充実ぶりに驚くという体験をしたのである。制度の充実ぶりからみると,イギリスの臨床心理学は世界で最も進んでいる。これからの日本の臨床心理学を考えるにあたっては,イギリスがひとつのモデルになることを筆者は確信した。
 しかし,このように言ったとしても,日本ではなかなか信じてもらえないだろう。そこで,筆者は,イギリスの臨床心理学の歴史をたどり,その周辺領域と比較して分析する本を書こうと決心した。そうすることは,国からお金をもらって留学した筆者の義務であろう。このため,ロンドン滞在中に,多くの人に会ってインタビューし,資料を集めることにした。イギリスで会うことのできた心理学者や精神医学者は60名にのぼる。また,資料収集にあたっては,ロンドンのいろいろな施設を利用した。ロンドン大学精神医学研究所の図書室をはじめとして,ロンドン大学セナトハウスの図書館や,タビストック・クリニックの図書室,ウェルカム財団の医学図書館などを利用した。大英博物館や大英図書館などにも足を運んだ。そして,帰国してから,こうした資料を整理し,日本語の文献もできる限り検索して完成したのが本書である。

丹野 義彦