まえがき

 心理臨床の場面で用いられるロールシャッハ・テストは,創始者のロールシャッハ(Rorschach, H.)が夭折したこともあり,理論的基礎や実施法や解釈法の異なる多くの学派が存在してきた。したがってロールシャッハ・テストという時,用いられる図版が同じである以外に,一定の実施法や解釈の仕方が存在するわけではない。しかし心理テストとしてロールシャッハ・テストを用いる研究者や臨床家が,このテストによってパーソナリティを理解しようとする場合,重点の置き方が違っていても,構造(形式)分析,内容分析,系列分析などを総合していることは否定できない。アメリカにおいても,さまざまなロールシャッハ・テストの学派が存在しているが,主な学派であるベック(Beck, S.),ヘルツ(Hertz, M.),ピオトロウスキー(Piotrowski, Z.),ラパポート(Rapaport, D.)とシェーファー(Schafer, R.),クロッパー(Klopfer, B.)の実施法や解釈法を実証的に検討したエクスナー(Exner, J.)は,包括システムによるロールシャッハ・テストを構築し,今日では,この方式が世界の臨床家や研究者の共通言語となりつつあるといえる。本書は,包括システムの解釈に先立つ実施法について解説するとともに,わが国の被検者の反応実例により,構造分析の基となる記号化の定義と基準を明確にしたものである。
 われわれは長年にわたり,健康な人々やさまざまな問題をもつ人々にロールシャッハ・テストを実施してきたが,1986年頃まではおもにクロッパーの方式に従い,「ロールシャッハ解釈法(1964)」「ロールシャッハ診断法Ⅰ・Ⅱ(1981)」も公刊した。われわれはロールシャッハ・テストの解釈が,臨床心理学の宿命ともいえるサイエンス(科学性・客観性)とアート(直観性・主観性)の統合を必要とすると感じながら,構造分析をサイエンス的アプローチと呼ぶとすれば,内容分析や系列分析は,よりアート的なアプローチであると考えている。そしてロールシャッハ・テストによって個々のクライエントのパーソナリティをより深く理解するには,サイエンス的アプローチの枠組みを基盤としながら,多くの臨床経験に基づくアート的アプローチが必要であると考えてきた。と同時に,このテストを臨床場面に役立てるためには,名人芸的な直観や,特別の理論による解釈だけではなく,一定の教育・訓練を受けた人なら誰もが,臨床に役立つ最小限の水準までは,同じような解釈ができるべきだと思っている。われわれが包括システムによるロールシャッハ・テストを行い,これに引きつけられたのは,実証性を重視する包括システムが,われわれの考え方に近いからであった。そして,われわれがわが国の被検者に実施した結果を,「包括的システムによるロールシャッハ・テスト入門―基礎編(1994)」と「包括システムによる解釈入門(1998)」として公刊した。
 ところで包括システムは完成し固定した体系ではなく,新しい実証的根拠によって改善され,発展していく特徴がある。例えばコード化の信頼性に乏しいという理由で,CONFAB(作話反応:Confabulation,他技法での作話的全体反応:DW)のコードが除かれたり,新しく人間表象反応の変数が加えられたり,反応内容のカテゴリーの定義が変更されたり,また解釈を進める方法の修正が行われたりしてきている。そこでわれわれは1994年に公刊した書物を改訂する必要を感じるようになり,エクスナーのThe Rorschach:A Comprehensive System Vol. 1の第4版(2003)の基準に従い,わが国の被検者の反応を基にしたロールシャッハ・テストの実施からコード化(スコアリング),そして構造一覧表の作成までの過程を明らかにしようとした。したがって本書で述べる反応例や言語表現は,すべてわが国の被検者の反応に基づいている。ロールシャッハ・テストの結果を解釈するには,一定の実施法と正確なコード化が必要であり,これが適切に行われなければ,サイエンスとしての数量的な検討はもちろん,アートとしての解釈を進めることも困難であり,本書ではこの点を明らかにしたいと考えた。そのためにコード化の基準を詳細に解説し,多くの実例をあげた。
 なお本書で述べるロールシャッハ・テストの実施法やコード化は,現在の包括システムに従っているが,わが国の健常成人の反応について検討したところ,日米間の文化差から生じる形態水準・平凡反応・反応内容などについて,エクスナーの分類基準の一部を修正せざるを得ない部分があったので,これを明らかにしている。また特殊スコアの定義や実例も,日米間の言語構造や表現に違いがあり,わが国の健常成人,統合失調症者などの精神障害者,犯罪者,児童の反応を収集して分析し,わが国の被検者によりよく適用できるように配慮して示した。
 さらにエクスナーと同じように定義されたコードであっても,日米の被検者によって記述統計量がすべて合致するとはいえない。「包括的システムによるロールシャッハ・テスト入門―基礎編(1994)」では,わが国の健常成人220人(男女それぞれ110人)の資料に基づいた数値を示したが,本書では新しく健常成人180人の資料を加えた,健常成人400人(平均年齢35.49歳:男女それぞれ200人で平均年齢は男35.69歳,女35.29歳)の記述統計に基づいている。しかし本書では最小限必要な数値のみをあげており,詳細な数値は,近く公刊する「ロールシャッハ・テスト解釈法」(仮題)で記載することにした。
 本書がロールシャッハ・テストを臨床場面で用いるための基礎として,ロールシャッハ・テストを用いる臨床家や研究者,またこのテストを学ぼうとする学生にとって少しでも役に立てば幸いである。
 なお本書の校正中,2006年2月20日にエクスナーが逝去された。1992年秋に金剛出版の田中春夫氏の援助により,京都嵐山で御会いして以来の交誼を思い,心から冥福を祈りたい。
……(後略)

2006年3月3日  高橋雅春