はじめに

 このような文字通りゆめにも想像しない内容(第Ⅱ部)の本書を滝川一廣先生と青木省三先生がご企画下さっていると伺ったとき,身に余ることと大層驚き,有り難くはあるが,それは畏れ多いことと固辞した。けれども,すでに作業は進みつつあるとのこと。かねてから,退職したら健康が許すときは少しボランティアめいた営みをし,ひっそり人知れず暮らそうとこころに決めていた。そうだ,本として形に現れる頃は,もうこの世界には居ないのだから,面映ゆさやおこがましさには耐えられるかもしれない,とついご厚意を戴いてしまった。
 その後,予想だにしなかったことに,ほんの暫く仕事を続けることになった。限りある時間である。サッカーのロスタイムに見苦しいプレーをするようであってはならない。控えめに辨えて,しかし必要な責任は果たせるようでありたい,と今は静かに思う。
 本書の第Ⅱ部,ならびにまえがき,あとがきを読むと,お書き下さった先生方に対し,何れも過分のお言葉で,勿体なくて手を合わせる深謝の念で一杯である。そして,一方,どの先生の御文章も,私について記述されていながら,その内容は実体としての私をはるかに超えており,むしろ内容は人としてあらまほしいあり方の本質,さらには心理臨床の要諦がお一人お一人独自の視点と表現で述べられている,と読める。この第Ⅱ部にご執筆下さっている小倉清先生が「村瀬先生って,ロールシャッハ図版みたいな人なのね。誰もが自分の気持ちや考えをそこに描き出すから,人によってずいぶん違って,さまざまに見えるのだと思う……,」とかなり以前だが仰有った。そう,たまたま「私,村瀬」に仮託して心理臨床のそうあることが望ましい特質が叙述されているのが第Ⅱ部である。そういう意味では,これは私個人についてという段階に止まらず,心理臨床の本質を読者の方々はここから読み取って戴ける内容なのではないか,と思う。

 小さいときから今日まで一貫して自分に対する不全感を私は抱いてきた。誉められても,一瞬,有り難い,とは思うが,それは遠い海鳴りのように思われる。ここまで考えた,分かったと思うのもそれは束の間で,目前には分からないことが廣く広がっている。せめてこうありたいと考えつつ,それを実現できていない自分がいる。そういう自分が書いたり,話すことは多くの先達,同僚,若い人々からの刺激であり,かつ自分が生きているのは主体的努力というよりいろいろな人やこととの出会いに負っている。「私」というのは,さまざまな人々の支えとことごとの有機的総体なのだ。
 自分に対する拭えない不全感を抱きながらも,今日まで来られたのは,専門領域の多くの方々は言うに及ばず,そっと後押しをしてくださったり,強力に支えてくださる,そして,一歩踏み出す気力をあたえてくださった素人の方々のお陰でもある。そこで,以下すべての方々について言及できないが,幾人かの方との出会いを記して,感謝の気持ちの表現に代えさせていただきたい。
「自信をもって! 表現することに意欲を!」
 A君は中学3年生,自閉症の中核症状が出揃って,発語無く,身長は170センチを超え,特大の中学制服ははち切れんばかりであった。周囲の人々からすると,文脈が極めて分かりにくい状況での暴力行為が頻繁しており,情緒障害児学級でも欠席を暗に推奨されていた。いくつもの機関を巡って,母親に伴われ来談された。生母はA君の障害の重さと夫の自分本位で経済力のなさから,三人の子どもを残して離婚し,行方知れずなのだ,という。A君の重篤さに私どもでは責任をもってお受けいたし兼ねる,と応えたが,話だけでも聴いてほしい,と母親はいう。手に余るようなA君に何とか対応しようと懸命なそのひたむきさにこころ打たれた。
 模索を重ねるうち,A君は自分の名前を自覚的に覚え,仮名釘流だが平仮名でそれを書けるようになった。それに伴い,状況の意味を汲もうとする様子が見えるようになり,暴力もやや和らいだようであった。母親は素直に「この子は自分に名前があること,自分ということが分かった!」と涙をこぼされた。一方,私はA君の将来を考え,展望のおぼつかなさのほうが気がかりであった。私の表情から察して,母親は次のようになまりのある言葉で一気に語りだされた。
 「幼児であった自分は朝鮮動乱(1950年から1953年)の最中,戦火を避けて逃げまどううちに,親とはぐれて孤児となった。以後筆紙に尽くしがたい苦労をして流転の年月を送り,日本へたどり着いた。苦難を重ね,Aを頭に三人の子の継母となった。夫は働きが少ない。でも,自分は家族を与えられた。Aが大人になっても世の中で生活できないことは分かっている。でも,重い障害があっても,家族の生活を味わい,自分は自分なのだ,という感覚はせめて持たせたい,と考えて今日まで来た。
 Aのような子どもが一生暮らせる施設を同じような境遇の親達と一緒に作って運営しようと考え,パートと内職,そして栄養を考えながら生活を切り詰め(たとえば,動物性タンパク質は魚屋であらをただで貰い上手に調理してきた等……),既に○○円貯蓄している(1970年代にしては相当な金額!)。将来のことは考えている。
 先日,後ろでそっと先生の講演を聴いた。非常に控えめだった。先生は恥ずかしがり屋だ。内容は悪くない,もっと自信を持って,書いたり話して! それは人の役に立つのだから。息子に一生懸命あれこれ考えて接してくれるのを見て,先生のような人と施設を運営できたら,と思ったりもした。でも,先生は先生の道をずっといくのがいい,自信を持って!」
 やがて,一家は首都圏から転出していかれた。今でも仕事で人前に出るとき私は気後れがする。そのとき,A君の母親の言葉がふと浮かぶ。
 意気地無しの先生は嫌,勇気をもって!
 Bさんの長女は既に問題が解決して,元気に生活していた。Bさんとの親面接を終えることになっていたある日のこと。終了の挨拶をして,Bさんは切り出した。「何か,考えごとを抱えておられますね」さりげなく否定したり,話題を変えようと試みた。だが,Bさんは言い逃れはさせじ,と切り込んでくる。本来私事については絶対語らないことを通してきたのに,その時に限って遂に正直に答えてしまった。義母が病弱で,その望みに合うような家事手伝いの人を見つけるのは至難であること,家族に忍耐を求めてまで続けるほど,自分の仕事の質には自信が無いこと,そして私の仕事の代わりをする人を得ることは容易だから……。Bさんはきりりとした表情で「そんな意気地のない先生は嫌です。先生はもっと自信を持って強くなって下さい。先生を必要とする人はあるのです。私がお宅の家事を手伝い,大奥様のお相手もします!」と。驚く私にBさんはすらすら見通しを話した。往復の途上は街並みに似合った,スーツにハイヒールで通ってくる。料理は得意である。大奥様の聴き役になるようにする。口をかたく保つことはできる。仕事を辞めてはいけない,自分たちのような家族が先生を待っている……。」
 それから,義母が亡くなるまでの間,Bさんは義母のよき聴き手とし,そして美味しいお料理で,私どもの家族生活を支えてくださった。思いだしては笑ってしまうのであるが,Bさんは背が高く,垢抜けした美しい人であった。私の留守中,玄関で応対するBさんを村瀬孝雄の伴侶と早合点されたある方が,「村瀬先生の奥さんは背が高い日本人離れした,ものすごい美人」と吹聴され,それを楽しんだ主人は敢えて訂正せず,ある会のメンバーの間では,それが事実としてかなりの間,流布していたのであった。
 先生のような人を教育して育てて!
 Cさんは衝動的暴力行為が激しいということであちこち転々とした結果来談された。Cさんの母親はわが子の行動上の問題の原因は,すべて外にある,と硬い表情で訴えた。だが,Cさんの激しい行動化は果たして外での苛めや彼女がいわゆる自閉症のための問題行動だとは考えにくい節があった。Cさんへの関わりに主眼を置き,母親の憤りを素直に聴くようにした。ある時,Cさんは往来の激しい玄関前の前庭に駈けだして仰向けに大の字に寝そべり,「死にたい」と大声で繰り返した。それまでの来し方を想像すると彼女はそう叫ぶのも分かるような心地がした。「辛いこと,悔しいこと,苦しいことがいっぱいあったのだ,と思う。今日まで,よく生きてこれた,本当に偉い,とこころから思う。折角今日まで来たのだから,これから生きていてよかった,ということを見つけない?」Cさんは叫ぶのを止めて,私を凝視していた。「ね,私の手に掴まって,でも自分で立ち上がれるでしょう? 私に起こされるのではなく自分で立ってみて……。」Cさんはむっくり起きあがり,自分から屋内へ歩み入った。この次第を母親はじっと息をのむように見つめていた。
 次回,母親は涙を滲ませて,苛酷な半生を語った。ようやく家庭生活の安定を味わえるかと思ったのに,予期せぬCさんの障害への対応に苦慮し,ゆとりを失って虐待を繰り返してきた,と。Cの暴れ方は自分が彼女に八つ当たりしたその仕方に似ているので,さらに追い詰められた気持ちになっていた,と。
母親の緊張が緩むとCさんなりに手につくことから,目的をもって行動するようになり,やがて,母子は一緒に洋裁学校へ通い出した。
 その頃,私に専任教員として大学へ務めるようにというお誘いを戴いていた。家庭の事情と教育するという能力に自信が持てず,躊躇していた。ある日,Cさんの母親は問いかけた。「先生は迷っていらっしゃいます。」事情を知って,彼女は突然私の右手を両手にとり必死の表情で言った。「先生,教えることを引き受けて下さい。先生のような人を十人育てて……。たくさん育てようと思っても無理。先生のような人が十人増えるだけでも,私たちのような親は希望が持てる……。」しばらく私は言葉が出なかった。
 若い人々を,自分の考える型にはめようとするのではなく,基盤となることを大切に考えながら,各自が裏付けのある自信を持てるように,向上を目指して努力することが歓びに連なることを伝えたい,とその後ひそかに心懸けてきた。Cさんの母親から与えられた課題に後押しされるような心もちで……。

 心理臨床の営みとは,人の生きる上での苦悩や困難があって成り立っていることをさりげなくしかし確かにこころに留めたい。
……(後略)……

2006年 葉桜の頃に 村瀬嘉代子