まえがき

 強迫性障害(Obsessive-Compulsive Disorder ; OCD)の治療に取り組んでおられる臨床家のお手許に,強迫性障害治療の実践指南書「強迫性障害治療ハンドブック」をお送りする。本書は強迫性障害の診療全体,すなわち強迫性障害の診断・症状評価・薬物療法・心理教育・精神療法をカバーしており,最新の知見をふまえた診療の進め方が具体的に解説されている。また,強迫性障害の病態研究の進歩や強迫性障害にまつわる各種のトピックスにも触れ,さらに熟達の先生方に強迫性障害の治療のコツを伝授していただくコーナーも設けてある。こうした本書は,強迫性障害の治療にあたっておられる臨床家の皆様に,折に触れて手にとり参考にしていただける内容になっているのではないかと期待している。

 編者が医者になってから20余年が経っているが,この20年の間にどの精神障害の治療が一番進歩したかをあらためて考えてみると,強迫性障害が有力な候補の1つではないかと感じられる。編者が研修医になった当時は,まだ抗うつ薬(クロミプラミン)の有効性は(少なくとも編者が属していた大学の医局には)十分伝わっておらず,行動療法や森田療法を行っている治療者も身近にはいない状況であった。実効性のある薬物療法と精神療法が見当たらない中,「強迫性障害は難病である」という見方が当時の医局の通り相場となっていた。現在なお難治性の強迫性障害が少なくないことは事実であるが,それでもこの20年の間に精神医学と臨床心理学が格段に強力な強迫性障害の治療手段を手に入れたことは間違いない。

 かねがね編者は,強迫性障害の治療を試行錯誤しながら進めていき,患者との共同作業が実を結んだ時に治療者が感じることのできる喜びと満足感は,臨床家が体験できる最高の醍醐味の部類に入るのではないかと思っている。そしてこのような感じ方には,臨床家としての編者の個人史が強い影響を与えているようである。
 前述のように,編者が研修を受けた20余年前の医局ではクロミプラミンの有効性はまだ十分知られていなかった。そうした中,「1回の入浴時間が4〜5時間に及ぶ」「泣きながら米とぎを100回以上行う」といった激しい強迫症状で苦しむ難治性の強迫性障害患者を受け持ち,編者は打つ手に窮した。諸先輩に相談しながら各種の向精神薬を試したのだが,ほとんど改善はみられず万事休すの状態に至った。そうした中,診察室で疲労困憊して困惑と絶望の色をみせる患者の様子を見ながら,「強迫症状が目立つが,うつ状態でもあるなあ。そういえば,あの薬はまだ試していなかったな」とふと思いついて,まったく偶然にクロミプラミンを選択して処方した。すると早くも1週間後に改善のきざしがみられ,2カ月後には強迫症状がほぼ完全に消褪してしまった。その時の実にシャープな薬効と患者の屈託のない笑顔が,20年以上経た今でも忘れられない。

 また,初めて本格的に行動療法を行った症例のことも,編者にとって忘れられない思い出となっている。やはり難治性の強迫性障害があり,編者にとって伝家の宝刀(馬鹿の一つ覚え?)となっていたクロミプラミンも残念ながら十分効果を発揮できなかった症例を担当して,またも編者は対応に窮した。そこで,仕方なく行動療法のテキストをにわか勉強して,セッションの進め方を記したメモを片手に曝露反応妨害法をおずおずと行ってみたのである。初めての曝露反応妨害法の場面で,当然のことながら当初のうち患者はすこぶる不安が強く,ためらい躊躇していた。それでも,半ばパニック状態になっている患者を励ましながら一緒に病院の壁を触り続けたところ,少しずつ患者の不安が和らいで緊張がほぐれて行き,最後にはかすかにくつろぎと喜びの気配さえ浮かんできたのを目撃した。その経過を見守っていた時に体験した安堵と発見,臨床家としてのワクワク感と達成感は実に印象的で,今でも編者の脳裏にあざやかに焼き付いている。

 加えて近年は,国立精神・神経センター武蔵病院の認知行動療法専門外来で,外部の医療機関から紹介を受けた多くの強迫性障害患者の診療を担当してきた。その経験を通して,強迫性障害における認知行動療法の有効性を再確認するとともに,現在の認知行動療法だけでは十分対応しきれない症例が少なくないことをあらためて実感した。そして,こうした症例の治療を個別に工夫する中で強迫性障害の治療の奥の深さ,一筋縄ではいかない複雑さと妙味を痛感しているところである。
 強迫性障害の臨床に関して編者はごくごく一般的な知識・経験しかなく,強迫性障害の臨床研究を行ってきた実績も乏しい。それで,本書編集の打診をいただいた際にまず感じたのは,「完全なミスキャストで,とんでもない!」というまったく場違いな思いであった。その後,金剛出版の立石正信氏と話し合いを繰り返す中で図々しくも気を変えたのは,一つには医師になって以来一貫して強迫性障害に関心を寄せ,不十分ながらも認知療法を含め広く浅く勉強して,強迫性障害の診療に独特の魅力を感じてきた事情があった。また,強迫性障害の治療における目覚ましい成果と進歩が,必ずしも診療現場で広く普及して活用されるに至っておらず,一部宝の持ち腐れ状態になっているような現状を遺憾に思う気持ちもあった。実際,強迫性障害の診断・薬物療法・精神療法に問題があり治療が滞っている症例が少なくない現実があるように見受けられる。こうした現状を少しでも変えるために,強迫性障害の診療全般に関する実践的でわかりやすい指南書を作ることに意義があるかもしれない,という分不相応の考えを浅はかにも抱いてしまったわけである。

 諸般の事情があり,当初予定していた項目の一部が欠けることになり,本書で強迫性障害の診療の全体をカバーすることはできなかったが,診療にまつわる必要最小限の内容は網羅できたのではないかと感じている。編者は,本書がわが国の強迫性障害の治療の進展に裨益することを期待している。
……(後略)

2006年2月14日 原田誠一