はじめに

名刺のない夢
 失業は過酷な体験です。
「朝方みた夢でうなされました。夢の中でも客先の会社をまわって営業しているんです。いつもどおり名刺交換しようとして,名刺入れから自分の名刺を出そうとするんですが,いくら探しても他人の名刺ばかりで,自分の名刺は出てこない。恥ずかしさ,ばつの悪さで冷や汗,あぶら汗をかいて立ち往生しているところで,目が覚めました」
 50代の男性はこんな悪夢を語っています。入社以来,三十数年間営業ひと筋でやってきたけれど,早期退職ではあるがリストラ失業に近い形で辞めて,まだ1カ月足らず。再就職支援の現場でお会いした方です。
 この「名刺のない夢」は,会社と個人の関係を考えるとき,とても象徴的ではないでしょうか。日本人の,特にある年齢以上の男性が,自分のアイデンティティを規定するものは,どんな会社にどんな肩書きで勤めているかという職業アイデンティティが中心でしょう。つまり会社の名刺が文字通り,IDカード,その人の存在証明なのです。
 戦後,高度成長のもとで長く続いた終身雇用の制度は,会社と個人の安定した関係をもたらしました。しかし「御恩‐奉公」の一面もあります。会社が定年まで雇用を保証する「御恩」と引き換えに,社員は会社の命令にどこまでも従ってきました。希望しない人事異動でも言われた通りに,転勤になって家族の都合で単身赴任になっても会社のために尽くし忠実に奉公し勤め上げてきました。個人や家族よりも会社を優先してきました。たとえ「社畜」などといわれようとも,組織に帰属しているという安心感を得られ,自分の存在の拠り所を会社が保障してくれる限り,両者には安定した関係が続いていたのです。
 失業とは,この関係が断ち切られ,会社に所属するというアイデンティティを喪失することに他なりません。単に職を失い収入を失うだけではありません。会社の看板,地位,世間体,人間関係,これまで培ってきた会社との信頼関係,家庭での役割・地位など,実にさまざまなものを失うのです。
 失業〜再就職を支援するキャリアカウンセリングの難しさはそこにあります。
失業のキャリアカウンセリングは究極のカウンセリング
 私は再就職支援会社の相談室で5年間,心理カウンセラーとして多くの失業中の方々にお会いしてきました。そこで感じたことは,失業した人,つまり会社を辞めて再就職をしようとしている人へのカウンセリングはとても難易度が高い,ということです。
 失業とは,職業人生において大きな転機です。そこではキャリアカウンセリングの要素と心理的なカウンセリングの要素の両方の面が求められる場合が多いのです。クライアントにも生活がありますから,支援する期間は限られていて,とりあえずの直近のゴールは次の転職先が決まることです。しかし長年勤め上げた愛着ある会社を辞めてきたことへのさまざまな思いを抱えています。すぐに気持ちを切り替えて転職活動に集中できる人ばかりではありません。また,自信喪失になることもあって,こんな自分のキャリアで次が見つかるのだろうか,という将来への漠然とした不安感も沸いてきます。
 失業を契機に職業アイデンティティが揺らぎ,棚上げにしてきた自分の幼少期からの未解決の問題が再燃してくることもあります。こうした場合,職業人生にとどまらず,その人の人生全体を揺るがす危機をはらんだ転機になります。
 こうした内面的な世界とも付き合いながら,一方では現実的に履歴書・職務経歴書の書き方や採用面接の受け方などのスキルを具体的にコーチングしたり,決まりそうな案件の情報提供も必要です。自己の棚卸しを徹底してやる必要と時間的・精神的・経済的猶予がある場合もあれば,とにかく転職して,一刻も早く収入を確保しなくてはならない場合もあります。この見極めも簡単にはいきません。
 失業のカウンセリングとは転機・危機にある人への究極のキャリアカウンセリングといえるのではないかと思います。
 本書のねらいは,失業についてさまざまな観点から考察し,具体的な事例に即して失業のカウンセリングに求められるものを洗い出していくことにあります。最も難度の高い失業のカウンセリングを検討していく作業を通して,結果的には,日本のキャリアカウンセリング全般について必要な要件や現状の問題も明らかになってくると考えます。
 少し大げさにいえば,「御恩‐奉公」の関係で組織に守られてきた日本人が,会社の庇護を失い,アイデンティティそのものが揺らぎ喪失しかねない失業という過酷な体験に遭遇したときに,会社から距離を置き,個人として自立することができるか,というテーマに今,私たちは直面しているのではないでしょうか。
 この構造は,景気が回復し失業率が下がってきても,もはやもとに戻ることはない,不可逆的な変化といえるでしょう。それは,これまでの大きな安泰の「会社の物語」から,リスクもある小さな「自分の物語」をどうやって取り戻すことができるか,というテーマでもあります。
本書を読んでいただきたい読者の方々
この本を読んでいただきたいのは次のような方々です。
    すでにキャリア・コンサルタントの資格をお持ちの方で,キャリアカウンセリングをやってみたが,どうも習ってきたことだけでは実際のクライアントに向かったときにうまくいかないと感じている方
    今,キャリア・コンサルタントの養成講座に通っておられる方
    企業の人事・労務担当の方
    キャリア相談室で相談を受けているが,相談内容がキャリアに止まらないケースも少なくないと感じていらっしゃる方
    産業カウンセラー,心理カウンセラー,臨床心理士の方で産業分野やキャリアカウンセリングに関心をお持ちの方
    今,自分が失業している方
    今,自分が転機・危機にあると感じている方
このような方々が自分の転機・危機を考えたり,実際にキャリアカウンセリングをしていく上で,きっと活かせる具体的で現実的なヒントになるような本であったらいいと思います。