「序章」より

 バウムテスト(樹木画テスト)は,アレックス・ミュニエに教えてくれるように頼んだ筆跡学の研究にとって貴重な補助手段であるに違いないといつも考えていた。
 教科書的に規範通りに書かれた筆跡を前にして,筆跡学者がぶつかる解釈上の困難さを私も感じたものだった。
 実際,教えられた規範から多かれ少なかれ離れていることで,書き手の文字が個性的になり,それに応じて筆跡がその深い個性を筆跡学者に開示するのである。
 樹木画は学校教育の一部ではなく,被験者が自発性と独自性を示し得るものであり,さらに深い個性とそれに含まれていて〈語られないもの〉のすべてが樹木画に表現されるのである。
 この新しい方法に私は熱中し,その限界を意識しながら心理学の専門家から依頼がある度に他の性格検査と一緒にこの方法を使ったが,性格検査ではまずロールシャッハ・テストとソンディ・テストを用いた。
 バウムテストは〈紙と鉛筆のテスト〉と呼ぶに相応しいものであるという事実から見ても,材料は数枚の紙とペンの類やボールペンだけで簡単に使える方法なのである。
 紙の上のインクの濃淡に満ちた素描を筆跡学の観点からも利用できることもあって,私はいつも鉛筆よりもインクを好んだ。その上インクのほうがさり気なく素描できるという利点もあった。
 さらに次に2つの点に注意することが有益だと私は思う。つまり,紙の大きさと描いてもらう木の種類に関して今までの研究者と少し違う指示を出したのである。
 機械で裁断された紙よりも小さい18センチ×24センチの大きさの紙が私には手頃だと思われる。というのも,この紙の大きさが被験者にある種の制約,すなわち限定され幾分束縛された位置にいる感じにさせるからである。
 同じ考えに基づく「村のテスト(test du village)」を実施することで,豊かな情報を得ることができると私は考えていたし,そのうえアレックス・ミュニエが称賛していたのでこの規格を採用した。被験者にある種類の木(コッホの実のなる木)を指示して描かせたり,あるいはあるタイプの木(ストラの樅の木)を排除するといった方法を採らなかったのも彼に従ったからである。
 大幅な自由裁量を被験者に与え,ただ〈木〉を描いて下さいと指示するだけで他には何の説明や指示を与えなかった。
 木を限定させないで被験者に選択させることに重要な意味があるのは,経験から証明されていた。ここで参考までに以下のことに注意を促したい。つまり,樅の木を選ぶことは一般的に幅広い意味があり,イトスギからは理想主義的傾向,コナラ属の木では伝統を重んじ周囲から認められる存在になりたいという欲求,椰子の木では逃避傾向,しだれ柳は抑うつ傾向,剪定された柳では去勢による成熟拒否などである。
 この本をバウムテストのマニュアルにしようと考えたのでなく,内容の流れから幾分理論を説明するところもあるとしても,私の狙いは膨大な資料から選んだ絵を図示しながら心理学的次元のテーマを取り扱うことである。
 最後に付け加えたいのは,テストを受けた人々はテストの意味も解釈の基礎も知らず,自ら進んでテストを受けてくれ,常に結果については彼らに知らせたことである。
 筆跡学は筆跡の解釈として類型学的なものを含めなくても少なくとも180の概念から成る一つの記号論に立脚しているのに対して,バウムテストは空間の象徴解釈や絵に含まれる象徴(実,多様な対象,川など)について200以上のパラメーターがあり,このテストの豊かさと複雑さを物語っている。
 最後に,私の意図を述べるには,コッホが述べた次の言葉を挙げることのほうが簡潔に表現されるように思われる。

〈事実が明らかに蓋然的なものであったとしても,人間の「すべて」が一つの投影に現れるというのは極めて疑わしい。患者は投影されたイメージを彼の中に送り込ませることのみを行う鏡の役割を果たしながら,木は投影をサポートするもの以外のなにものでもない。……〉
〈内的世界を外界に投影することは意識的意志によるものではない。本質的であるもの。それは,物理的な資料,つまり木のテーマが,主体の個性から発した描線によって構造化されているという事実だけである。〉

 詩人たちはそのことをよりよく理解していた。リルケがわれわれにこう断言しているのだから。
〈もしおまえが一本の木が生きることに努力しようと思うなら,おまえの中にある内的空間を木のまわりに投げ込むのだ。〉
 ジュアンドーについて言えば,彼は確かに溶け合う一組の男女を夢想しながら,こう述べた。
〈おまえと私が同じものになった一本の木がある。〉
    われわれの時代が望む人間
    それは木のような人間
    静かな安らぎに満ちて
    しっかりと根を張っている
    大地にも大空にも

オリヴィエ・クレマン