まえがき

 境界性パーソナリティ障害(Borderline Personality Disorder:以下,BPD)とかかわるようになって40年近くなる。患者との間でさまざまな感情に揺さぶられながら,またさまざまなことを考えさせられながら経験を積み重ねてきた。患者の役に立ちたいという熱意だけは持っていたつもりだが,それだけでは,あるいはむしろそれゆえに治療が行き詰るという辛い経験もたびたびあった。そういう経験によって,また同僚との議論によって,BPDに対する私の姿勢や治療技法は少しずつ変化してきた。ここ数年そろそろこれまでの経験をふりかえって自分なりのまとめをしたいと考えていた。ちょうどそのとき,厚生労働省の委託研究『境界性人格障害の新しい治療システムの開発に関する研究』の主任研究者となられた牛島定信先生から,分担研究者の一人として個人精神療法を担当しないかとのお誘いをいただいた。自分ひとりのまとめを作るのとは違って,日本版ガイドラインの作成を目指す仕事なので責任は重いが,われわれの積み重ねてきたものを世に問うよい機会と思ってお引き受けした。この委託研究は個人精神療法ばかりでなく,診断,マネジメント,薬物療法,入院治療,家族援助,地域援助などきわめて幅広い領域や方法を含むもので,そのこと自体,かつて精神分析的精神療法から始まったBPDの治療が,近年さまざまな領域や方法へと広がってきていることをよく反映している。個人精神療法はその幅広い治療システムの一部なのである。牛島主任研究者の基本的な考えは,われわれ日本の治療者が(そこには精神科医だけでなくメンタルヘルスのさまざまな専門家が含まれるが)それぞれの職場で現実に行いうる治療システムを構築しようということと,従来もっぱら精神分析の中で論じられることが多かった個人精神療法についても,一般の精神科医や臨床心理士が行いうるような形で提示したいというものだった。私自身もこの考え方には基本的に賛成である。牛島先生が私を個人精神療法の分担研究者に指名されたのも,私が精神分析的精神療法を学びつつも分析にのみ依拠することなく,できるだけ日常の言葉で精神療法の基本を明らかにしようとしていることに目をとめてくださったからだと思う。
 研究を開始するにあたって,私は何人かの身近な臨床家に研究協力者になってもらうことを依頼した。そのメンバーは近藤三男,市田勝,外ノ池隆史,木村宏之,木村哲也,加藤洋子の6名の精神科医と,神谷栄治,寺西佐稚代の2名の臨床心理士である。いずれも名古屋心理療法研究会に属する臨床家で,BPDの治療に関心を持ち実践している人たちである。私を含めたこの9名で,2002年に始まった第1期の3年間は,文献研究,われわれ自身の担当した症例の検討,専門家へのアンケート調査を行い,それらに基づいて「BPDの個人精神療法ガイドライン(案)」を作成した。2005年からの第2期は上記のメンバーに加えて(遠方から参加していた加藤洋子医師のみは第1期で退いた),浅野元志,宮原研吾,江崎幸生の3名の精神科医に加わってもらい,ガイドラインの検証,改善に取り組んでいる。研究の結果は厚生労働省が行う毎年の研究報告会で報告し,文献研究に関しては「境界性人格障害の個人精神療法―文献の検討から―」として精神療法誌に発表した(成田ら,2003b)。また第1期の研究のまとめとガイドライン(案)は厚生労働省「精神神経疾患研究委託費」14公−2「境界性人格障害の新しい治療システムの開発に関する研究 平成14年度−16年度報告書」に報告した(牛島,2005)。また第100回日本精神神経学会総会シンポジウム「境界性人格障害治療の現状と問題点」でも「境界性人格障害の個人精神療法」として発表した(成田,2004b)。しかしなにぶんにも研究報告会や学会の発表時間は短く,また報告書も紙幅に制約があるので,われわれの研究の要点あるいは一部しか発表できない。われわれは自分たちの仕事の全容を何らかの形で公にしたいと考えた。仕事のまとめをしたいというわれわれ自身の願望を満たすためであることはもちろんだが,必ずしもそれだけではなく,われわれの研究が現在BPDの治療に取り組んでいる,あるいはこれから取り組もうとしている臨床家の方々に多少ともお役に立つのではないかと考えた。また,もしさいわいにして読者から御意見,御批判をいただくことができれば,よりよいガイドライン,よりよい治療システムの開発に向けてさらに進むことができるのではないかとも考えた。こう考えて牛島先生の御了解を得た上で金剛出版に出版を依頼したところ快諾を得て,本書ができあがったわけである。
 われわれが本書で意図したところは,BPDの個人精神療法について,基本的に力動的立場に立つとはいえ,必ずしもそれだけにとらわれない精神療法のコモンセンスを言葉にしたい,それによって多くの臨床家が現に行っているBPDの治療をさらにいくばくなりと良質のものにしたいということである。この意図がどの程度達成できているかは,お読みいただいた読者の批判を待つしかない。巻末のガイドライン(案)をさまざまな立場に立つ専門家の方々にお送りしてご意見をうかがったところ,精神分析的立場の治療者からは不徹底で中途半端であるとの御批判があり,そうでない立場の治療者からはこれでもなお分析用語が多すぎるという御批判があった。こういう両方向からの批判は精神療法のコモンセンスを目指すわれわれとしては甘受すべきことと考えているし,あるいはむしろわれわれの意図がある程度達成されたことを示すものだとも考えている。とは言え,BPDの成因や治療についてはいまだ諸説があるので,われわれの提示したこのガイドライン(案)が唯一最良の治療法であると主張するつもりはない。別の立場,別の考え方もあるであろう。本ガイドライン(案)がより適切な治療に向けてのたたき台になることを願っている。その手始めとして,本研究の第2期から新たに参加した浅野元志医師にガイドライン(案)の批判的検討をしてもらった(第Ⅷ章)。なお厚生労働省の委託研究では「境界性人格障害」という用語が用いられているが,「パーソナリティ」の訳語として人格を用いることには疑問を感じるので,本書では「境界性パーソナリティ障害」とした。ただし委託研究の報告書などを引用する場合には「境界性人格障害」としてある。また,BPD概念が確立する以前の研究や幅広く境界水準の病理に関する研究を紹介する際には,境界例あるいはボーダーラインという用語を使用した。
 ……(後略)

2006年7月 成田善弘