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日本版への序文

 本書が邦訳されたことに示されているように認知行動療法のケースフォーミュレーションは,現在さまざまな国々に普及してきています。このような国際的な発展は,とても喜ばしいことです。50年以上も前に臨床心理学のモデルとして,科学者−実践家モデルが提唱されました。ケースフォーミュレーションは,この科学者−実践家モデルに新たな息吹きを与え,臨床心理学の新しいかたちとして世界各国で活用されるようになっています。そのような点でも認知行動療法のケースフォーミュレーションの発展は,たいへん望ましいことといえます。

 ケースフォーミュレーションでは,個々のクライエントがどのように問題を形成してきているのかという,個別性を重視します。つまり,事例の個別状況における問題や障害の学習メカニズムに注目するアプローチです。しかし,残念なことに,近年,ケースフォーミュレーションとは質の異なる精神医学的診断システムが至る所で強い影響力をもつようになっています。精神医学的診断は,個別状況に注目するのとは逆に,標準化された技法とマニュアルを重視します。そこでは,症状を一般的な診断分類に機械的に位置づけていくことが目指されます。その結果,精神医学的診断は,ケースフォーミュレーションが重視するクライエントの個別性に基づく対応を台無しにしてしまいます。個々の事例は,さまざまな要因や状況が重なり合って成立しています。ところが,精神医学的診断は,診断分類という単純な枠組みで事例の多様性を割り切ってしまいます。そして,診断分類(特に症状)に対応して決まっている治療マニュアルに基づく介入をします。その結果,クライエントは,自分の状態を理解してもらえたという気持ちをもてず,治療そのものを受け入れないということも出てきます。

 このような精神医学的診断に基づく症状対応の治療マニュアルについては,近年修正が加えられ,訓練生にとって使いやすいように改善されてきています。しかし,そのようなマニュアルに頼っていたのでは,事例の問題を包括的に理解することができなくなります。つまり,本章で解説する“問題のフォーミュレーション”の技能を育成することができないのです。問題をフォーミュレーションすることができて初めて,クライエントが直面している問題の本質を理解できます。そして,個々の問題状況に適合した介入仮説を生成することが可能となります。そのような事例のフォーミュレーションがあってこそ,セラピストは,問題に適切に介入していく過程を辿ることができるのです。

 ケースフォーミュレーションは,データに基づく仮説検証を重視する心理学の実証的手法を臨床的コンテクストにおいて活用するものです。このような実証的方法は,日本の心理学の長い歴史に合致する面があると思います。既製の技法マニュアルに基づく介入は,結局は短絡的なものでしかありません。それでは,複雑な問題や障害に対しては有効な介入を提供することはできません。ケースフォーミュレーションでは,個々の事例の状況に関するデータを丹念に収集し,そこから介入目標を設定し,問題のメカニズムに適合した介入仮説を発展させます。このような実証的な手法に基づくケースフォーミュレーション・アプローチを採用することで,複雑な事例であっても有効な介入が可能となるのです。また,ケースフォーミュレーションは,セラピストとクライエントの間の協働関係を特に重視します。この協働関係についても,ただ単に関係を構成すればよいというのではありません。対象となる問題の特質やクライエントの性格に関するデータを収集し,それに対応する適切な関係を形成する必要があります。

 私は,昨年,東京大学の臨床心理学コースの下山晴彦教授との共同研究の一環として日本を訪れ,東京と京都で認知行動療法のケースフォーミュレーションに関連するワークショップやシンポジウムを開催しました。参加した学生やスタッフの皆さんの,認知行動療法のケースフォーミュレーションを意欲的に学ぼうとする姿勢は,とても印象的でした。これは,私にとっては非常に喜ばしい経験でした。さらに,それを受けて本書が下山教授によって邦訳されることになりました。このようなケースフォーミュレーションの紹介が契機となり,日本において認知行動療法や臨床心理学のさらなる発展が促進されることを心より期待しています。

2006年6月 ロンドンにて  マイケル ブルック
Michael Bruch

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