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編訳者あとがき

 周知のように英米圏の国々において認知行動療法は,臨床心理学の中心に位置づけられている。しかも,認知行動療法が原動力となって,臨床心理学が専門活動として社会に広く認められるようになってきている。これは,効果研究によって認知行動療法の有効性を実証する結果が示されたことが大きな要因となっている。しかし,それだけでなく,認知行動療法は,生物−心理−社会モデルに合致するものであることも重要な要因となっている。臨床心理学は,認知行動療法を主要な方法として採用することによって生物−心理−社会モデルにおいて重要な役割を担うことができるようになり,医療職などの他の専門職と協働してメンタルヘルスの活動を展開できるようになったのである。

 近年,わが国においても認知行動療法がにわかに注目され始めている。たとえば,性犯罪者の矯正や被害者支援においても認知行動療法が正式の介入技法として採用されるようになった。しかし,その導入の仕方には,やや無理がある。というのは,わが国おいては認知行動療法の導入に熱心なのは,臨床心理学ではないからである。むしろ,諸外国のメンタルヘルスの最新動向を知る機会の多い精神科医や心療内科医が認知行動療法の有効性を早くから認識し,導入に熱心である。また,学習理論の応用として行動療法に注目してきた実験心理学者,あるいは認知心理学の適用として認知療法に注目してきた認知心理学者なども,比較的早くから認知行動療法の導入に熱心であった。そのような影響もあり,奇妙なことであるが,わが国では本格的な臨床活動をほとんど経験していない心理学者が認知行動療法を強く推すという傾向がみられる。このような心理学者は,臨床心理学の基本的な教育訓練を受けていないために,精神医学の影響を受け,医学モデルの中で認知行動療法の適用を目指す傾向が強い。

 しかし,本書でも強調されているように認知行動療法は,本来医学モデルの中に収まるものではない。本書の原題は,『Beyond Diagnosis:Case Formulation Approaches in CBT』となっている。認知行動療法は,医学と協働できる側面を持ちつつ,医学を超えて臨床心理学独自の発展を可能にするものなのである。それと同様に認知行動療法は,実験心理学の原理を取り入れつつも,それを臨床活動の手段として発展させている。特にクライエント一人ひとりの状況に適合できるように介入方法を工夫するところが,認知行動療法の真骨頂といえるのである。ところが,医学モデルや実験心理学の発想に基づいた場合,認知行動療法はマニュアル化される傾向が強くなる。つまり,診断分類や症状に合わせて,マニュアル化された認知行動療法プログラムを適用するという方法が推奨されるようになってしまうのである。
 原書の編者の一人であるMichael Bruch博士が日本語版序文で強調しているように,そのようなマニュアル的介入は,クライエントの個別性に基づく対応を台無しにしてしまう。そこで重要となるのが,ケースフォーミュレーションである。クライエントが直面している問題をフォーミュレーションすることで,問題の本質を理解できるからである。そして,個々の問題状況に適合した介入仮説を生成することが可能となる。この点で認知行動療法を健全に導入するためにはケースフォーミュレーションの手続きを学ぶことが必須となる。
 これと関連してケースフォーミュレーションの中核を成す機能分析の重要性にも触れておきたい。日本に紹介される認知行動療法は,どちらかといえばベックやエリスの影響を受けた認知療法の流れが強くなっている。しかし,認知療法は,認知に焦点を当てるために身体・生理の要素や対人行動の要素を軽視する傾向がある。それに対して行動療法の流れを汲む機能分析は,本書でも解説されているように身体・生理的要素や行為的要素も認知的要素と同様に重視し,それらを組み合わせて反応システムとして問題を包括的に理解する観点を提供する。したがって,臨床心理士が生物−心理−社会モデルに基づいて他の専門職と協働して活動を発展させるためには,機能分析と,それを活用するケースフォーミュレーションが必須の手続きとなるのである。

 このようにケースフォーミュレーションは,単に認知行動療法を導入するために必要な手続きというだけでなく,それを健全に導入し,一人ひとりのクライエントに役立つ介入をするためにも必要な手続きなのである。また,本書でも強調されているように認知行動療法のケースフォーミュレーションをするためには,クライエントとの協働関係が土台となる。日本の臨床心理学は,認知行動療法にはあまり注目してこなかったが,従来からクライエントとの間で信頼関係を構成することには力を注いできた。したがって,ケースフォーミュレーションは,日本の臨床心理学の伝統と認知行動療法をつなぐ機能を果たすものとなる。その点でケースフォーミュレーションは,今後の日本の臨床心理学の発展にとってとても重要な方法である。このような点を考慮し,本書の翻訳を思い立った。
……(後略)

2006年9月25日  下山晴彦

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