はじめに

 今回,今まで書き溜めたものに書き下し一篇を加えて,金剛出版からこういう本を出していただくことになった。カウンセラーとして40年ほどやってきて,ここ数年間に発表したものである。いつもながらあまり代わり栄えしない内容に忸怩たるものがあるのだが,そのつど精一杯の思いを込め,結果的に少しずつは進歩の跡も認められるかと思いたい。
 一つだけ取り柄と思えるのは,中には少々理屈っぽいものも含まれているが,すべて私なりの実践を踏まえて書かれていることである。
 第1章は臨床心理士を目ざす大学院生のために書かれた。私には,カウンセリング・マインドという言葉に惑わされて心理臨床家でないとできない,しかし,クライエントには不可欠なサービスについて考えることが,長い間わが国で怠られてきたという痛切な思いがある。この道を志す若い人たちに,カウンセリングが誰しもにできることではない,訓練を経た専門家にしかできないことを,少しばかり長く実践に打ち込んできた者として語っておきたい気持である。
 第2章は,心理治療について,心理臨床家はカウンセリング,精神科医は精神療法と呼びならわしてきたが,結局は第2章に述べた臨床心理行為であることを,心理治療の歴史を遡って考えてみた。なお予断を許さぬとはいえ,臨床心理士の国家資格認定の気運が高まっている現在,心理士の側からの相当つっこんだ見解が述べられている。
 第3章は再び大学院生のためのものである。カウンセリングの1回1回のセッションがそのつどの“出会い”の意味を担うことを,実際の臨床場面におけるカウンセラーのあり方として述べた。あわせて架空のケース(もちろん私自身の臨床経験を踏まえている)を通して,それが臨床的現実としてどのような相を顕すのかが示されている。
 第4章はスーパーヴィジョン論である。比較的多くのスパーヴァイジーに会ってみて,かなりの臨床経験のある人に,見立ての能力の決定的に欠けていることに気づかされた。ただ漫然と“カウンセリング”をやっているといった態度で,このクライエントにカウンセラーであるこの私がどういう意味でお役に立とうとしているのか,の吟味がほとんどない。おそらくそれは,有能なスーパーヴァイザーの数が決定的に不足しているからか,と思っている。クライエントに共感しようとして逆に“客体化”していることも気になった。
 第5章は実践を目ざす臨床心理学が,そもそも応用心理学の一分野にすぎないのか,という疑問から書かれた。カウンセリングは全体的な人間に働きかける試みである。最近喧しいEBM的アプローチに対して,それに劣らぬNBM的アプローチの重要性を踏まえて,カウンセラーを志す人たちは,文化人類学や宗教学,哲学,文学など,いわば臨床人間学ともいうべき分野に親しむ必要があるのではないか。比較的新しいイギリスの臨床心理学の成果をも認めながら,それとは異なる方向性を目ざすべきではないか,とする提案である。
 第6章は,私自身がなぜカウンセラーになったかという経緯を述べた。心理学を習ったことのない私が,大学院で心理学を講じ,何冊かの教科書まで作った。それが偶然なのか必然なのか。私自身にもいまだに分からない。
 第7章は,第2章で触れた臨床心理士の国家資格の問題から,どうしても「臨床心理行為」の独自性を明確にする必要があり,緊急の課題として力をこめて書いたものである。多くの心理士の方たちには共感と励ましの言葉を頂いたが,精神療法に従事する医師の方々との反響は必ずしも期待したほどに好意的なものではなかった。それが心理士たちに好意的な方たちであっただけに,それぞれの思惑にひそむなお埋めるべき溝の深さを思わされた。
 第8章は,臨床心理士の活動範囲が地域臨床ということで著しく広がっていること,そのために領域の異なる専門家との接触の増えていること,それに伴ってよくいわれる密室≠フ中の二者関係にとどまっておられないことなどについて,特に医療の領域,教育の領域,さらには開業心理士のありようについて具体的に述べた。
 第9章は,ロジャーズの理論と技法がわが国に導入された頃,診断的理解か共感的理解かで議論が高まったことがある。今思えば,それは昨今のエビデンス・ベースドかナラティヴ・ベースドかの議論に通じているような気がする。そこで感情レベルの共感と感覚レベルの共感について述べ,「感じるためには知らねばならない」ことが論じられている。
 第10章は,近頃のロジャーズ再評価の気運に関連して,わが国におけるロジャーズ理解がわれわれの臨床経験の深まりと広がりに応じて,かなり足が地についたものとなりつつあること。そこでロジャーズ第一世代の実践と思索を,第二世代,第三世代とのつながりを踏まえて考察している。
 第11章は,共感と解釈との相補性について。それがともすると相反的になりかねないことを,ユングの論文「現代心理療法の諸問題」に沿ってかなり綿密に考察している。あわせて,フロイトの有名な症例ドラについても一つの考え方が示されている。感覚レベルの体験が感情レベルで吟味されることなく,一遍に思考レベルの解釈に至ったことが中断に至った一番の理由ではないか,ということである。
 第12章は,転移,逆転移現象が従来言われているように,面接場面に面接場面外の人間関係が持ち込まれるのではなく,面接場面で生じた関係が実は過去の,あるいは現在の人間関係に生じていた(いる)ことを確かめるプロセスであることを論じた。私なりの少しばかりオリジナルな考え方と思っているが,実践的立場からはどちらでも大して変わらないことかもしれない。
 第13章は,比較的最近読んで感心した,エプストンの「ナラティヴ・セラピーの冒険」とアンデルセンの「リフレクティング手法をふりかえって」によって触発された考え,を整理したものである。そして彼らの外在化手法が並々ならぬ理論的背景をもち,一見技法が勝っている印象を与えながら,内在化を目ざす立場と実際的には変わらないところのあることを論じている。
 以上解題をかねて比較的長いまえがきとなった。本書を手にとられた方が,内容の方も読んでみようという気になられる一助になれば幸いである。実践に明け暮れる心理臨床家が,そのつど自分なりには真摯に考えたものであり,同じく実践に苦労されている方たちに何がしか参考になれば,と願っている。
……(後略)

平成18年6月30日 氏原 寛