編者あとがき

中村伸一(中村心理療法研究室)

 会津の刀鍛冶のお家柄(「伊勢音頭恋寝刃」という名刀青江下坂にまつわる歌舞伎の演し物がある)を御先祖に持つ下坂幸三先生は1929年に東京でお生まれになり,2006年3月26日に心不全のために急逝された。77歳というあまりにも早い旅立ちだった。
 下坂先生の論文集の第一巻となる本著は,亡くなる直前まで先生御自身により最終稿の脱稿を目指して仔細な校正を加えはじめておられたものである。本著の全体の構成も先生の御意向のままである。志半ばというよりも突然の最期により,先生御自身が本著を手にすることができなかったことはさぞ心残りであったろうと想像する。
 先生は1950年に私立順天堂医学専門学校(順天堂大学医学部の前身)を卒業され,1952年から1973年まで同大学に在籍された。その後新宿区に下坂クリニック・下坂心理療法研究室を開院し,わが国では極めてまれな自費診療による心理療法を始められた。
 大学在籍中,精神神経誌にかの有名な「青春期やせ症(神経性無食欲症)の精神医学的諸問題」(1961)を発表され,本症の症候(現象)学,精神病理学,心因,家族背景,心理療法的アプローチの可能性をつまびらかにし,一躍精神医学界の脚光を浴びた。この論文を凌駕するような本症への包括的な研究を私はいまだ知らない。この論文を中心として,その後のご研究は『アノレクシア・ネルヴォーザ論考』(1988)の中に収められている。特に1973年の開業後は,本症の心理療法を中心に徹底的かつ精力的に研鑽を積まれ,多くの現場の臨床に密着した諸論文を発表なさった。この過程で,先生は本症における患者と家族への心理療法的関与の重要性をますます切実に感得され,牧原浩先生や鈴木浩二先生らを中心に順天堂大学で定期開催されていた家族病理家族療法研究会に出席され続け,さらにはこの研究会を前身とした1984年の日本家族研究家族療法学会の設立にも大いに尽力なされた。
 ここで僭越ながら私の先生との最初の出会いを披露したい。私が同じ大学を卒業し精神医学教室に入局した2年前に,すでに先生は大学を辞し開業なさっていた。外来は続けておられたので陪席の機会を待っていたが,なかなかまわって来ず主任教授に直談判した。それまでみたことのないきめ細やかな面接場面だった。拒食の娘の診察に母親もともなってきており,彼らに先生は穏やかな姿勢を保ちながら,実に丁寧に母子の話を聞き取り,話をなぞりながら,時々,ちょっと不思議がって「そこのところもう少し教えてくれますか?」などと説明を求めたりする。ちょうど,患者や家族がことばに尽くせないアンビバレントな感情のこもった部分や,若干の内省を要さないとことばにならないポイントでこれらの合いの手のような質問がなされていたのを鮮明に覚えている。
 その後,先生のご自宅兼診療所で月一度の研究会があることを知り,早速参加させていただいた。心理療法の症例研究で夜7時から10時くらいまで開かれる。10人以内のメンバーで各自事例を出すのが原則で,先生ご自身も症例を出し,その場合はおこがましくもわれわれがコメントする。そこでは徹底したやりとりの事実が問われ,それに緊密に沿った仮説やコメントをいただく。とりわけ治療者の具体的発言の吟味に時間を割きアドバイスをいただいた。心理療法の指導者としての先生は,断言するようなアドバイスはほとんどなさらず,治療者の性分とその発言の意図をじっくりと確かめてから,「こういった方がよかったかもしれない」と穏やかに指導してくれた。穏やかな口調なので,その場では事例提出者が深く反省することは表面的にはなかったかのように見えたが,後でよく先生のご発言を振り返って考えてみると,われわれの盲点や偏狭なもののとらえかたを正確に見据え,しばし耳の奥底まで静かに響くような「ことば」だったと感じたのは私だけではあるまい。今振り返ってみると,それらの「ことば」はいわば治療的ダブルバインドといえるような音調と内容だったように思う。「軽やかで重厚な」「優しく厳しい」「ユーモラスで真実を突いた」たくさんの「ことば」をいただいた。
 またこの事例検討会では精通なさっていた精神分析理論をはじめ,既成の理論をじかに援用して説明されることを先生はつとに慎んでおられるようだった。「抵抗」「転移」「逆転移」「洞察」といった分析用語は一切持ち出さず,これらの治療過程で生じる現象を具体的なケースに即したことばで表現なさっていた。あらゆる臨床で起きる現象をだれもが腑に落ちる「日常のことば」で極力表現なさろうとされていたように思う。専門用語は,それらが発せられようと発せられまいと,臨床の現実認識を歪めたり狭めたりし,臨床現場を行き来する「生きたことば」が含蓄する豊かなふくらみを削いでしまうということをこれほど深く学んだ機会は他にはない。
 検討会での先生は事例提出者に先生独特の「行きつ戻りつ」の問いを発しながら,患者の症状にまつわる現象を丹念に聞き取り,慎重な見立てをなさった上で,ご自分の長年の臨床経験から培ってきた判断を相手にわかりやすいことばで伝えようと腐心なさっておられた。先生の最重要視されていた「臨床記述現象学」の方法論の真髄をみせていただいたような思いであった。こうした姿勢からもわかるように先生は仮説や理解に達するのに「飛躍」は避けた。半面,先生ご自身は目の前の臨床から離れた時は「飛躍」がお好きだったように思う。最終的に「地道」と「飛躍」の両方を自分のものになさったと思う。
 このように事例検討会では,具体的でミクロなアドバイスをなさると同時に,患者(そして家族)と治療者の些細に見え,気にも留めないようなやりとりの分析から治療全体の流れを読み解かれるコメントも重厚でゆるぎないものだった。症例提示者への感謝と励ましも忘れなかった。
 私も参加し始めて20年目になる頃からサブ・コメンテーターの役割をおおせつかり,コメンターとして症例を読み解く機会を与えていただいた。先生が私のコメントの後,埋め草的にコメントしてくださるのだが,私にとっては症例とその提示者の特質を読み込んでコメントをする配慮を大いに学ばせていただいた。研究会の半ばに奥様と先生からケーキと紅茶を振舞っていただいたことも決して忘れることはないだろう。
 こうした先生の心理療法の方法(先生は「作法」とも述べておられた)についてのありようが第一部の前半に配置されているのは,まずもって心理療法をおこなっている読者に先生の臨床面接経験を伝えたかったのだろうと想像する。ただし,初心の読者がいわゆる心理療法の教科書と思って読み始めると困惑をきたす難解なものとなるかもしれない。臨床経験(とりわけ摂食障害や境界例の事例)を多く積まれるにしたがって,著者のいわんとするところが徐々に染み込んでくる性質のものであると信じている。オーソドックスな面接法をマスターした上での下坂流応用編といえるものである。
 本著では冒頭から家族から家族面接の重要性とその方法(作法)が多く語られている。年を経るごとに先生は患者と家族との面接を「家族療法」と呼ぶことが少なくなった。最終的にはあえて「家族面接」と呼ぶことを好んだ。家族の病理を治療するといった姿勢を良しとせず,家族こそが患者の支えであり,家族一人ひとりを尊重しつつ協働治療者とみなし,家族と患者に寄り添って「応援」(先生はこのことばを家族面接で愛用した)することこそ治療者の役割であるとの姿勢が醸成された。「私の家族面接」(これは2000年,精神分析学会46回大会での古澤賞受賞記念講演である。本書第一部第四章)の中にその要旨が述べられている。この姿勢は,先生が当初から日本家族研究・家族療法学会の中心的な指導者でありながら,大方の他のメンバーと異なり,むやみに欧米の家族療法をそのまま取り入れることはせず,今までのご自分の臨床に家族療法理論をどのように活かせるかを熟慮し続けた結果達成されたものである。つまり既成の家族療法理論にむやみに近づき振り回されることなく,常にご自分の確固とした臨床に家族療法を引き寄せたともいえる。そしてそれを「常識的家族療法」(1991年,精神神経誌。『心理療法の常識』金剛出版収載)として公表なさり,具体的な先生の臨床姿勢をわれわれに示し続けた。
 この「私の家族面接」に代表される諸論文は,心理療法界における大きな新しい「進歩」を指し示していると思う。すなわちあくまで個人療法から発展した心理療法だけでは境界例や摂食障害の治療に功を奏さないことを,世界に先駆けていち早く発見し,家族を交えた心理療法を実践なさり,多大な実績を残されたのである。もっと早くに家族面接を多用していれば昔のような苦労と困難を味わわなくても済んでいたかもしれないと私に幾度となくもらされていたのを鮮明に覚えている。
 もうひとつの到達点が先生にはある。「道元の思想と心理療法」(1998年の日本家族研究・家族療法学会大会での第5代会長としての特別講演である。本書第一部第九章)にその一端が示されている。おそらくは「常識的家族療法」を長年実践しつつ,先生の中にはぐくまれてきたものが,その猛烈な読書量からくる知識と相まって生まれてきたものだろう。とりわけ西田幾多郎の著作に浸り,道元の思想に触れながら,禅の認識論を特に家族面接の中に生かそうとされた。とにかく先生はご自分が日常生活と臨床生活の中で,見るもの,聞くもの,読むもの,食べるもの,触れるもの,香るもの,感じるものなどなど,あらゆる心身の事象を感得し,それらを貪欲なまでにご自分の臨床に還元なさろうとしていた。たとえば先生には,ご自分が過酷な臨床から一息ついても,「一息つく」ことの臨床的意義を思索してしまうような厳しく細やかでかつ自由で創造的な日常があった。道元禅師のすごした毎日をご自分でも「なぞりながら」臨床と日常を行き来する充実した晩年が続いていたと推察する。こうした思索の片鱗は本書のいくつかのエッセイの中にも感じ取ることができるように思う。
 またご自分の膨大な臨床経験に照らして,あまりにも軽率浅学な臨床家たちを戒めることも多々あった。「名刀青江下坂の刀は良く切れる」のである。陰に回って切るのではなく,正々堂々と刀を振るわれた。「果たし合い」のような場面にも何度か臨席させていただいた。「日本人は非難と批判の区別がつかず,批判を非難と受け取られてしまい残念だ」ともよくおっしゃっていた。先生の「果たし合い」的な臨床に関する他者への言動は,批判であり相手を十分に評価した上でのご自分の意見だった。しばしば鋭く厳しく,なかなか好敵手には出会えなかったのかもしれない。こうした先生ではあったが,日本家族研究・家族療法学会が進めてきたわが国における家族臨床の発展には,大きな励ましを与え続け,最期の最期まであたたかく見守っておられた。
 本著は,先生がご自分で上梓なさるはずのものを私と黒田章史とで僭越ながら先生に成り代わり最期の脱稿のお力添えをさせていただいたものである。先生と深いご親交のあった多くの諸先輩や仲間をさしおいて,われわれのようなものがこの重大な作業をなしたことに恐縮している。ただこのような至らないあとがきを添えることになったが,下坂幸三先生の臨床の真髄を正しく後世に伝えてゆきたいという気持ちは両名共に人一倍強く持っているつもりである。御容赦いただきたい。
 最後に私事になるが,77年の先生の生涯の三分の一を越える時間を共有させていただいた幸運に恵まれたことをあらためて感謝したい。常に自分の臨床に厳しくあれという下坂幸三先生の一貫した姿勢は,その鋭利かつ温厚な面接場面と共に今でも鮮明に私の脳裏に焼きついている。謹んで先生のご冥福をお祈りし,わが国の心理療法に少しでも先生のお仕事を生かしていくのが残された私どもの大事な使命のひとつではないかと思う。下坂先生,本当にありがとうございました。合掌。
(歌舞伎の出典にあたっては本橋弘子先生に御教示いただいた。感謝申し上げる。)