訳者あとがき

 本書は,バレント・W・ウォルシュ(Barent W. Walsh)の著書「Treating Self-Injury: A Practical Guide」(The Guilford Press, New York, 2005)を訳出したものである。
はじめに,今回,本書を訳出した経緯を説明しておきたい。
 われわれはすでに,著者によるローゼン(Rosen, P.M.)との共著「Self-mutilation-theory, research, treatment. The Guilford Press, New York, 1988(松本・山口訳「自傷行為―実証的研究と治療指針―.金剛出版,東京,2005)」を訳出している。お読みになられた方はご存じと思うが,われわれはその書の訳者あとがきのなかで以下のように記したのであった。「本書を訳出するにあたって,1つだけ気になったことがある。それは,本書の刊行が1988年で,すでに16年も経過しているという問題である。特に,1990年代以降,北米を中心に活発になった解離および虐待という視点からの研究,さらには,生物学的な手法によるさまざまな研究において,多くの価値ある知見が追加されている。また,近年では,弁証法的行動療法による治療の成果も,少しずつではあるが確認されている。にもかかわらず,われわれの知るかぎり,1冊の著書としての完成度,それから,臨床上の重要なテーマをあますところなくとりあげているという点で,現在のところ本書を凌ぐものがない」。つまり,われわれは,前著が「自傷学」の入門書として,実用性と包括性の双方をあわせ持っていることを十分に認めながらも,一方で,確かにその内容の古さを気にしていたのである。
 ところが,前訳書の刊行から8カ月後の2005年10月,ウォルシュの新著「Treating Self-Injury: A Practical Guide」が刊行された。この知らせを受けて,われわれはただちにこの新著を入手し,大慌てで貪り読んだ。期待を裏切らないすばらしい労作であった。自傷をくりかえすクライエントに日々奮闘している臨床家を励まし,明日からの診療を力強く支えてくれると感じさせるものがあった。われわれはすでに準備を進めていた,別の自傷研究書の翻訳を一時中断してでも,まずはこのウォルシュの新著をわが国の臨床家に届ける必要があると考え,さっそく金剛出版編集部の立石正信氏に連絡をとった。幸いなことに快諾を得ることができた。結果的に,原書刊行からわずか2カ月後には翻訳作業を着手するという,専門書としては異例のスピードで作業が開始されたのである。
 本書には,前著の治療理念を引き継ぎながら,新しい知見が豊富に盛り込まれている。それでいて,消化不良に陥ることなく,あくまでも臨床家にとって実際的,現実的な治療手引きとしてスタンスを堅持している。見事なバランス感覚である。また,前著においてあいまいに濁されていた箇所のいくつかは確信に満ちた簡潔な表現へと変化しているし,新しいトピックにも大胆に切り込んでいる。
 たとえば,前著ではあまり詳しく議論されていなかったトラウマや解離の問題についても大いに分量を割いた記述がなされ,弁証法的行動療法(Dialectical Behavioral Therapy; DBT)―ただしリネハンらの原法を修正したものである―を中軸に据えた具体的な治療論が展開されている。したがって,修正されたDBTの実践をわかりやすく紹介したものとしての価値もあろう。また,援助者が自傷行為に対して抱きやすい陰性感情をとりあげて,まるまる1章分の議論をしてある点も,自傷行為に忌避的な臨床家にとって啓蒙的な意味合いがあるであろうし(第15章),近年,ファッションとして青年たちのあいだで広く見られるようになった,ボディ・モディフィケーションに関する論考(第4章)も,何が臨床において重要な問題なのかを整理するうえで役立つはずである。
 若年者や学校おける自傷行為をとりあつかったテーマにも,いっそうの充実がうかがわれる。自傷の伝染(第16章)の章では,わが国でも深刻な問題であるインターネットのサイトやチャットを介しての自傷の伝染にも言及されているし,学校における自傷管理方法を主題とした章(第17章)などは,近年,児童・生徒の自傷行為の対応に苦慮する養護教諭やスクールカウンセラーにとっても,大いに参考になるのではなかろうか。
 本文とならんで―いや,もしかするとそれ以上に―貴重なのは,本書巻末の付録である。たとえば,呼吸法マニュアルである。苦痛に耐える技法としての「マインドフルネス」を,ここまで詳細かつ具体的な記したものは,少なくともわれわれは他に知らない。ちなみに,訳者のひとりは,さっそくここに掲載されている呼吸法を何人かの自傷クライエントに提案し,一部のクライエントにおける優れた治療効果を確認している。
 同じく付録に掲載されている,自傷関連サイトの紹介も興味深い。それらのインターネットサイトには,専門家が開設したものもあるし,当事者が開設したものもある。その項でウォルシュは,どのサイトが回復に有用な情報を提供しており,どのサイトが自傷の「トリガー」となりうるかを論じている。同じようにわが国にも,専門家や当事者による数多くの自傷・リストカット関連のサイトがあり,ときにはそれが過激にエスカレートして,集団自殺をする「勇気」を励ますことになってしまう不幸な事例も存在する。その意味では,わが国の専門家も,定期的にさまざまな自傷・自殺関連サイトを評価し,利用者にその功罪について啓蒙していく必要があろう。
 要するに,本書は,自傷行為に関連するあらゆるトピックや実証的知見を網羅し,加えて豊富な臨床経験の蓄積を背景としており,明日からの臨床実践にそのまま役立つという実際的な有用性において,他の類似書を圧倒している。残念ながら,わが国には,これだけの高い水準の実践書を著すことのできる臨床家は,まだ存在しないであろう。

 ここで,ウォルシュの臨床活動について説明をしておきたい。
 ウォルシュは精神科医でもなければ臨床心理士でもない。修士号を取得した精神科専門のソーシャルワーカーとして臨床実践と研究を積み重ねながら,最終的に博士号を取得している。こうしたところからも,精神科医や博士号を持つ臨床心理士といった「高いコスト」を要する専門家よりも,修士レベルのソーシャルワーカーが心理療法の中心的担い手となっている,米国の現状がうかがえるかもしれない。
 本書も,前書と同じく,ウォルシュ自身が,長年かかわっている「The Bridge of Central Massachusetts(BCM)」が運営する「治療共同体(Therapeutic Community; TC)」での臨床活動にもとづいたものである。こうしたTCと呼ばれる施設は,米国では多数存在し,なかでも,薬物依存者(New Yorkを中心に世界各地に展開する『Daytop』)や犯罪加害者(アリス・ミラーの思想にもとづいた自助的支援を刑務所中心に展開している『Amity』)を対象とした施設が有名である。これらは,わが国におけるDARC(Drug Addiction Rehabilitation Center)といくらか似た点があるものの,TCという入所施設の治療構造そのものが,人の心を開かせ,その行動を変化させるための専門的な心理療法と見なされている点で,一線を画するものと理解したほうがよいであろう。事実,TCは,資格を持った専門家によって運営され,構造化された治療プログラムを擁し,高度な心理療法も提供している。薬物依存者や犯罪加害者にかぎらず,今日,米国における精神障害者に対する地域支援サービスを語るうえで,TCの存在を欠かすことはできない。もっとも,その背景には,1990年代初頭に導入された「マネージド・ケア(コスト管理型医療)」による精神科入院治療の崩壊があることは無視できないであろう。
 ウォルシュが臨床実務の責任者をつとめる,このBCMは,地域住民の強い要請を受けて1973年に設立されたNPO団体である。そこでは,ハイスクールを卒業もしくは中途退学しながらも,さまざまな精神障害,情緒障害,発達障害,薬物乱用などの問題行動のために社会参加がままならない青年たちを対象に,TC体験を通しての更正を目的とした活動が行われ,文字通り,問題を抱える青年たちにとって,学校から地域への「かけ橋bridge」となるべき場所としての機能をはたしている。現在では,支援の対象を,性同一性の問題を抱える性的マイノリティの青年への支援,あるいはホームレスに対する居住施設サービスにまで拡大し,30もの治療プログラムを擁する大規模施設である。
 このような広範な領域にわたる支援サービスの傍ら,BCMは,その心理療法の高度な専門性においても高い評価を得ている。BCMが,そのDBTを駆使した自己破壊的行動を呈する青年たちの支援を評価され,全米でもっとも優れた施設として,米国心理学会の2004年度「金賞」を受賞したことは,そのことを証明するものといえよう。精神科医でも臨床心理士でもないウォルシュが,自傷行為の治療に関してかくも高い見識を備えているのは,当然のことかもしれない。

 ウォルシュの治療理念の基底をなしている「自傷行為」観のなかでも,特にわれわれが重要と感じているものを三点に絞って整理しておこう。
 第一に,自傷行為はリストカットだけではないということである。わが国には,いまだにローゼンタール(Rosenthal, R.J.)の「リストカット症候群」の呪縛から逃れ切れていない臨床家が少なくないが,リストカットする者の多くは,他の様式による自傷行為も行っている。腕や脚,あるいは腹部を切る者もいるし,壁を拳で殴ったり,頭を壁に打ちつけたりする者もいる。なかには,火のついたタバコを皮膚に押しつける者もいる。つまり,自傷行為とは,身体表面を意図的かつ直接的に傷つける行動のすべてを指しているのである。
 その意味では,自傷した後に傷口の処置をしないことも,「自傷的」行動と見なすことができる。事実,自傷する者の多くは,傷口の消毒を怠り,縫合を要するほどの傷でもなかなか医療機関を訪れない。その意味で,自傷創の処置を求めて救急医療機関に受診するという行動は,実はそれ自体が「反自傷的」行動であり,本来ならば,救急医から「よく病院に来たね」と褒められるべき行動なのである。少なくとも,「自分で切ったくせに」と叱責されたり,「今度切ったらもう診ない」と説教されたりするような行動ではない。「過量服薬をしてしまった」と自分から医療機関に電話をかけてくるクライエントにも,同じように理解できる余地があるかもしれない。
 また,定義上,自傷行為とはいえないものの,摂食障害や物質依存,あるいは治療薬の中断もしくは過量服薬,さらには自らを危険に曝すような行動も自傷行為と密接な関係がある。したがって,自傷行為の治療においては,こうした多岐にわたる間接的かつ緩徐な自己破壊的行動についても系統的に評価・追跡していくことが重要なのである。
 第二に,ウォルシュは,自傷は演技的・操作的行動ではないということを強調している。このことは,英国の有名な自殺学者であるホートン(Hawton, K.)も指摘していることであるが,自傷行為の90%近くは単独の状況で行われ,しかもその大半は自傷したことを人に隠しているのである。とりわけ,それはトラウマを抱えた者で顕著である。だれにもいえない苦しい家族の秘密がもたらす心的苦痛に対処するために,自傷行為をくりかえし,しかもその家族の秘密と同様,自傷したことも秘密にする。自傷が知られることは,家族の秘密が露見することに近い意味を持つ。もちろん,経過のなかで,自傷が他者に与える影響を学習し,二次的な演技性や操作性を発展させる場合はあるが,それはあくまでも二次的な変化であることを理解しておかなければならない。
 したがって,あるクライエントの「自傷した」という告白には,これまであらゆる人に心を閉ざし,だれにも助けを求めることなく苦しい秘密を守ってきた者が,「ようやくだれかを信じてみる気になった」という意味がある。この貴重な心的変化に対して,「なぜ自傷したのか」と頭ごなしに叱責するのは,治療的でないどころか,破壊的ですらある。本来ならば,「よくいえたね」とねぎらうべきところであろう。わが国では,自傷の告白に対して,叱責や説教をする臨床家はまだ少なくない現状にあるが,こうした対応は,自傷にかぎらない,本来は秘密とされることが多い問題行動への対し方としては,もっとも好ましくないものであることだけは確かである。
 これは,物質依存のクライエントが物質の再使用を告白した場合を例にとって考えてみるとよくわかる。多くの依存者は,再使用を内緒にしたいと思うし,そもそも再使用した場合には,多くは医療機関への通院さえ中断してしまうものである。にもかかわらず,わざわざ自分の失敗を告白するために,交通機関を乗り継いで医療機関を訪れ,長い待ち時間に耐えたのは,一体どうしてなのかに思いをめぐらせなければならない。もしも正直な告白を叱責・説教されたならば,「もう二度と正直にはなるまい」と決意するはずであり,治療者の前で正直さを失ったら,物質依存からの回復は完全に望めなくなる。自傷行為の臨床も,それとまったく同じであることを理解する必要がある。
 最後に,ウォルシュは,自傷行為には大いに関心を持つべきであると主張している。彼によれば,自傷行為によって作られた傷の数,性状,あるいはその図柄,さらには用いる道具や自傷後の創処置の状況や心理状態の変化などを詳細に評価し,その傷を通してクライエントの心理状態や精神病理を理解することができる。また,自傷がもたらす心理的変化に注目することで,自殺のリスクも評価できる。たとえばウォルシュは,本来は自殺企図ではなく,心的苦痛に対処する方法である自傷行為が,もはや心的苦痛を軽減させなくなった場合には,自殺行動をとる危険が高まると指摘している。
 ウォルシュが推奨するのは,「控えめで冷静な態度」で二次的な強化に最大限の配慮をしつつ,「敬意ある好奇心」と「決めつけをしない思いやりの心」をもって自傷行為と向き合うことであり,クライエントが「傷を見せてくれる」ような治療関係を維持することである。こうした主張は,「クライエントの自傷に関心を持つな。かえってそうした演技的行動が強化される」,あるいは,「自傷などの枝葉の問題にはできるだけ拘泥せずにクライエント全体を見わたすべきである」などという,しばしば耳にする一部の臨床家の見解と真っ向から対立する。もちろん,正しいのはウォルシュの方である。「自傷した」というクライエントの告白に対して,臨床家が,傷を見ようともせずに,「ところで,夜はよく眠れていますか?」などと話題を変えてしまうことが,いかにクライエントを傷つけているのかを理解しなければならない。
 以上の見解にもとづいて,ウォルシュは,少なくとも治療の初期には「自傷を止めなさい」とはいうべきではないと主張している(第8章)。その理由は,自傷を止めるためのスキルを教えていないのに,「止めろ」というのは困難だからであるという。また,「もしも自傷した場合には」という形で何らかの罰則を設けるような治療契約を結ぶべきではない,とも述べている。こうした契約は,効果がないだけでなく,治療中断をもたらすという意味で弊害であるというのである。「(こうした契約のために)早期に治療からドロップアウトしてしまった場合には,彼らが将来,改めて治療を求める可能性は,きわめて低いと考えなければならない」(第8章)。
 ちなみに,余談であるが,このくだりを読んでいるときに,筆者は,かつて覚せい剤依存の外来治療法として提唱された前時代的な治療を思い出し,思わず苦笑いすることを禁じ得なかった。その治療法とは,「毎回の診察の時に尿検査を行い,もしも覚せい剤反応が陽性となった場合には警察に自首すること」を契約するという,あたかも治療と称して罠をしかけるような,治療とはいえない治療法であった。いずれにしても,自傷の治療には物質依存の治療と多くの共通点があることは,もっと知られてよいであろう。
 ところで,自傷者に対するウォルシュの視線は,優しく暖かく慈愛に満ちている。おそらくそのまなざしを受けること自体が,自分自身が生きていまここに存在していることを肯定される体験―リネハンのいう意味での「認証(validation)」される体験―となるのであろう。また,彼の治療論を丁寧になぞっていけば,徹底して自傷行為を照準しながらも,実はそこから人間全体が見えてくるという,逆説的な現象にも気がつくはずである。それどころか,自傷臨床で大切なことは,実は「自傷をする・しない」といったことではない気さえしてくる。「切らなくなる」ことではなく,怒りや苦痛を秘密裡に処理して「なかったことにしてしまう」という,周囲に心を閉ざした生き方を変えていくことが,治療の目標なのではないか,とも思えてくる。これは,前出の治療共同体「Amity」において重視されている「エモーショナル・リテラシー」―感じていることをありのままに人に表現できる能力―に通じる考えといえるであろう。

……(後略)

平成18年12月 訳者を代表して 松本俊彦