序   文

 質的研究は,複雑な心理療法プロセス理解に役立つ新たな知見をさまざまに提供するものです。また,質的研究によって,心理療法に関与する人々の経験,特にクライエントの経験のあり方をすくいとることもできます。実際のところ,心理療法には,(クライエントも含めて)さまざまな人々が関与しています。しかし,そこでどのような経験がされているのかは,今まであまり知られていなかったのです。質的研究には,臨床実践に関わるさまざまな事柄を明らかにできるという大きな利点があります。
 ところで,多くのカウンセラーやセラピストは,現在の量的研究に関しては批判的な態度をもっています。量的研究では,‘変数’を統制し,測定することによって統計的な結論が出されます。しかし,統計的に有意な結果が示されたとしても,それが,臨床的な経験と一致していないという場合も少なからずあります。つまり,カウンセラーやセラピストは,クライエントとの協働作業として日々実践している自分たちの活動の実態を示していない表面的な結果のみが,研究として提示されていると感じているのです。
 そのような量的研究に比べ,質的研究は,とても興味深く,かつ魅力的,そしてやりがいのある研究活動です。質的研究の真骨頂は,人間が経験する事柄の意味を整理,探究することに最大の力を発揮することです。正統な手続きを踏んだ質的研究のプロセスによって,研究者のみならず研究の読者までもが,他の手法では得られない知見を得ることができるのです。私たちは,経験の表層的な記述の上に構築された文化の中で生きています。数え切れないほどのウェブページ上をネットサーフィンすることもできるし,TVチャンネルをあちこちに変えることも,ニュースを抜粋のみで聴くこともできます。ただし,私たちは,そのように数え切れない情報を得ながらも,生活の断片的文脈(仕事・スポーツクラブ・今年・今日)においてのみしか,自分自身や他者を知ることができないことが多くなっています。これとは対照的に,よい質的研究とは,経験の全体像を把握し,そこから得られた知見を他者へ伝えようとする試みとなります。そして,そこでは,社会生活の特定の側面にじっくりと浸かることが必要になります。
 現在,多くのカウンセラーやセラピストが質的研究の豊かな可能性に気づき,質的研究に関心を向けるようになっています。質的研究の技法や手続きの多くは,心理療法において用いられるものとよく似ています。例えば,質的研究においても,心理療法同様,他者のストーリィを聞き出すこと,傾聴すること,何らかの仮説的理解を形成し,それを検証することなどを行います。質的研究によって生成された知識は,セラピストに馴染み深い知のあり方といえます。なぜならば,それは,全体性を重んじ,微妙なニュアンスを含み,主観的で,文脈を考慮にいれ,しかも今後の修正に対して開かれている知のあり方だからです。
 ただ,多くのセラピストは,質的研究を実施した時,あるいは質的研究論文を読んだ時には,欲求不満や幻滅を感じることがしばしばあるようです。質的研究に抱く期待と質的研究の可能性が,現実にはうまくかみ合っていないのが現状です。

 本書の目的は,心理療法と質的研究の2つの世界に橋をかけることです。例えば,質的研究の講座を受講しているカウンセラーやセラピストは,多くの場合,質的研究法の,さまざまな方法のガイドライン(互いに矛盾していることもあるのですが)が記載されているテクストを次から次へと読みこなさなければなりません。これらのガイドラインは,それ自体としては完璧に妥当なものであるのかもしれません。しかし,文脈や具体例なくして質的研究法を理解することは往々にして難しいのです。本書においても,随所でいくつかの研究手続きについては解説をしています。ですが,その際には,研究者が実際の研究活動において,具体的にどのようにこれらの手続きを適用したのかを解説することを重視しました。それは,本書が,研究者が研究を実施するのにあたっては,「何を達成したいのか」という研究目的を考慮すること,そして「哲学的もしくは実践的問題に関して,自分自身をどのように位置づけるのか」を考慮することが肝心であるという前提に立っているからです。
 カウンセラーやセラピストが質的研究の領域に足を踏み入れたなら,質的方法のもつ多様性と豊かさに驚くことになるでしょう。なぜならば,これまでの心理療法研究においては,‘人間科学的方法’としての質的研究が備える多様性と豊かさに十分な注意が払われることがなかったからです。特に質的研究の背景には,知識や真実の本質をめぐる,重要な哲学的テーマが含まれています。このテーマは,ひとたびこの世界に足を踏み入れると避けて通ることのできないものです。本書においても,こうしたテーマのいくつかについて取り上げていきたいと思います。

 本書は,以下の3点を目的とします。

1)カウンセリングや心理療法における質的研究に用いられてきた方法の紹介。
2)カウンセリングや心理療法における質的研究の実際例の要約および検討。
3)カウンセリングや心理療法における質的研究に関わる諸問題や論点の概観。

 私は,正直に申し上げて,本書がカウンセリングや心理療法の領域における質的研究に関して,包括的で信頼できる概観を提供していると言い切る自信はありません。少なくとも,私は,自分がどのくらいわかっていないか,また完全に理解しきれていないことがあることは自覚しています。読者の皆さんには,本書を,教科書のように真実を教えるものとして受けとめるのではなく,「私たちが生きている現実とは何か」をめぐる議論に参加することへの誘いとして理解していただければと思っています。本書は,私自身の刊行済みの一連の研究(2つの書籍と数多くの論文)の延長に位置づけられるものです。“Doing Counselling Research”(1994)においては,カウンセリング研究や心理療法研究における多くのアプローチの鍵となる要素を構造的に明らかにしました。“Practitioner Research in Counselling”(1999)では,日々の臨床実践を研究する出発点ともいえる研究法の紹介を目的としています。カウンセリングや心理療法の今後の発展のためには,適切に焦点づけられた質的研究を行い,そこから学ぶ能力は必須であると確信しています。

 近年の質的研究の隆盛にもかかわらず,それらの多くは,主流である論理実証主義,すなわち量的手法の前提および妥当性の考え方に縛られています。個人的には,量的研究の価値を認めるのにやぶさかではありません。しかし,私は,“人間科学的”方法としての質的方法は,量的方法とは根本的に異なる営みであると考えています。もし本書が「私たちが生きている現実とは何か」をめぐる議論に参加することへの誘いとして世の中に受け入れられるならば,それは,そのような議論の基盤に新たな動きをもたらす機会,さらには哲学的観点や人間として関与する意義を研究活動に導入する機会となることを期待しています。