監修者あとがき

 臨床実践を専門とする心理療法や臨床心理学において,なぜ研究が必要となるのか。

 読者の皆さんは,このような疑問をもったことはないでしょうか。フロイト,ユング,ロジャースなどの偉大な人物が素晴らしい心理療法理論を打ち立てているので,セラピストや臨床心理士は,それをきちっと学び,その技法を身に付けさえすればよいのでしょうか。そのように考えて研究など必要ないとみなしてよいのでしょうか。
 しかし,残念ながら,時代は刻々と変化し,社会状況は大きく変化しています。ましてや日本社会は,上述のような人物が心理療法の理論を創案した欧米とは異なる文化を基盤としています。そのように考えるならば,常にその時代の,その地域の社会要請に合せて臨床実践の理論や技法を常に修正し,発展させていく必要があります。したがって,「臨床実践であっても研究が必要」というのではなく,むしろ「臨床実践だからこそ,研究が必須となる」といえるでしょう。

 本書の第1章は,「質的研究法と心理療法の再構成」となっています。このことからも分かるように本書は,心理療法を改善していくために研究法をどのように活用するのかを丁寧に解説した入門書となっています。ただし,本書は,単なる入門書ではありません。最先端の内容を盛り込んだ本格的な専門書でもあります。本書が本格的な専門書となっている理由は,質的研究法の理論と方法の基本が,その哲学的背景を含めて解説されているからです。近年,日本においても質的研究の解説書が数多く出版されるようになっています。しかし,そのほとんどが,グラウンデッド・セオリーを中心とした技法論となっています。それに対して本書は,質的研究法をテキスト解釈学と現象学の学問的伝統に中に位置づけ,それとの関連で質的研究のさまざまな方法の理論と技法を説き起こしています。
 また,本書は,世界でも初めてといえる,臨床実践のための本格的な質的研究法の解説書でもあります。質的研究法は,量的研究法とは異なり,社会的現実に深く関与し,そこに生活する人びとの“声”を拾っていくことを基本とします。現実に関与するという意味で質的研究法は,極めて実践的な研究法です。ところが,これまで,臨床実践においては十分に質的研究法が活用されてきていません。それは,臨床心理士をはじめとして,臨床実践に関わる者の多くが心理学の訓練を受けてきたからです。心理学では,伝統的に論理実証主義と,それに基づく量的研究法が重視されてきたのです。本書の著者のMcLeod教授は,論理実証主義ではなく,社会構成主義に基づく研究法として質的研究法を位置づけ,その具体的方法を解説しています。しかも,最終章で明示しているように質的研究と量的研究を適宜組み合わる統合的な実践研究法も提案しています。
 このように本書は,方法論の観点からも,また臨床実践の観点からも,質的研究法の卓越した解説書となっています。その点で,日本で翻訳出版する意義があると考えました。しかし,それだけでなく,日本においてこそ,出版する意義があるとも考えました。日本の臨床心理学は,欧米で創案された心理療法の理論を輸入し,適用する傾向が強いのにもかかわらず,欧米では盛んに行われている心理療法の効果研究については,まったくといってよいほど取り入れていません。そのため,古色蒼然とした心理療法を,あまり疑いをもたないまま適用しているのが,日本の臨床心理学の現状です。このような状況を少しでも改善するために,本書のような本格的な研究法の書籍が待たれていたのです。
……(後略)

2007年2月 下山晴彦