『まえがき』

 私が12歳になる誕生日の前夜に父が亡くなったとき,一つの世界が終わりを告げ,別の世界が始まった。進行性緑内障で視力を失い,20年前からのかかりつけの薬局ですら父から奪われていくことで,父は,長い間抑うつと日増しにつのる孤独感にさいなまれ,1月のある寒い日の夜に,自分にとって生きるに適さなくなった生活に終止符を打つ決意をした。父の自殺は周到に計画され,かつては自らのいのちを長らえてきた薬に関する同じような知識に頼っていたものであったが,それに私たちが気づいたのは,父が起きないと母がパニックで絶叫しているのが,寝ていた当時9歳の私の弟と私のもとに飛び込んだときだった。私たちは驚き,うろたえ,掛け布団を放り出し,両親のベッドルームの側柱のあたりでじっと凝視して立ちつくしていた。そのとき,母は父の亡骸に近寄り,身体に触れ,恐怖であとずさりし,突然号泣した。あの一つの不意の身振りから,私たち家族のナラティヴのテーマを構成することの多くは押し流され,家族全員,自分たちが誰であり,どうやってこれから生きていき,父の死が意味することは何かということについて,取り乱しながら再び熟考する場に放り出されてしまった。母,弟,妹,そして私がその後に行った感情,家族,職業に関する選択の多くは父の運命的な選択に対する反応として解釈することができる。ただ,これらの意味は年月を越えて明確だったり,曖昧だったり,あるいは自ら再び考え直したりし続けるのだけれども。
 本書の出版時に,母は身体より心が丈夫ではあるものの,介護施設に今では寝たきりの状態である。彼女はきゃしゃで,やせ細り,心臓病,肺気腫,そして父の死に対する情緒的後遺症への長い間の苦しみが終わろうとしている。このことへの私の感情は,まだ自分で感じられる悲しみや父との死別への疑問よりも,もっと強烈で生々しいもので,このような言葉を打っていると私の中に生じてくる。私は唇を震わせ,目を潤ませながら,彼女がいなくなることを予想し,今では何十年前の写真でしか見ることのできない失われた活力を悲しみさえする。父の死の急激さ(少なくとも私の子ども心にはそう映ったのだが)とは明らかに対照的に,この生と死の間の時期ははっきりせず,長引いていく。つまり,母が私のきょうだい,妻,子ども,友人,そして一番大きいのは母自身と対話していく中で,このことは母の病気やいずれ訪れる死についての意味をいろいろと考えていく際に,さまざまな可能性を生み出すのである。この経験についての多くが,言いようもなく悲しく,時にはあからさまに感情的な葛藤となるのだが,同時に愛しいこともしばしばあり,私たち一人一人や,お互いが,私たちの関係を最良のものと確認することすらある。この本当に差し迫った死別が即座に起きると,その意味についてどんな形であれ,特定の予想をすることは困難になるのだが,それからの何年かの間で私たちの個人的,集合的アイデンティティをさらに定義し直す上で,私はこの意味への予兆を感じるのである。
 もちろん,この問題は私の人生での死別を定義することに関する最も明白な二つの点のみである。他にも多くが存在し,それらのすべてが死に関連しているわけではない。読者はいろいろな人の死別に関するストーリーに,きっと接することができるだろう。こういう話は同じように描写的であり,その意味は語り手の伝記という広範な文脈において,多少なりとも明らかになるであろう。確かに,私は死別とこれに対する個人,家族,文化における反応は,人間生活できわめて明確なものであると思わざるを得なくなった。それは死別自体に内在する重大性(もしどんなものが潜んでいるとしても)のためではなく,正確に言えば,それは個人的には深く,対人的には複雑な表現での意味の追求が始まるからなのである。
 本書はこの仮定,つまり私たちが従来悲嘆と呼んでいることの中心的なプロセスは,意味の再構成であるということを前提としている。以下のページでは,何人かの著名な理論家,研究者,臨床家に執筆を依頼している。彼らは死別の「新しい視座」を一緒に生み出し,その構想を明確に述べようとし,得られた知見を共有し,悲嘆のカウンセリングや心理療法の実践に対する示唆をよく検討している。ちょうど死別が人生において中心的な位置づけであるように,私は死別という遺産に対してどの程度意味づけがなされやすいかという点を心理療法の中心的テーマと考え,たった今,死別を経験した人にだけもたらされる,特別な援助サービスとは考えないようにしている。私は以下の章で述べることが,自発的な移行の結果として,人生の再構成を他者に援助している専門家に対して資するだけではなく,死別をその人間の複雑さの中で研究している学者の精神に語りかけていきたいと思う。また,読者が少なくとも死別体験者の言葉を彼らの自身の死別体験と結びつけて欲しいと思っている。そうして,彼らがエキスパートとして悲嘆に関わることで,自分自身の生活での意味についても,より繊細に把握できるので,さらに豊かになっていくであろう。
……(後略)

テネシー州メンフィスにて  ロバート・A・ニーマイアー, Ph. D.