『はじめに』

 原始的なサルと高等類人猿や霊長類とを分けたものは,二足歩行でも,道具の使用でも,言葉の使用でもない。そのように,筆者は考えている。最新の進化の道筋に関する研究を見ていると,人が人となれたのは,仲間と意思疎通を図りたいとの意欲を持ったからなのではないかと思えるからである。
 人類の祖先は,木の上での生活をする段階で,すでに表情を持ったと考えられている。表情筋を動かすものが感情(情動)である。次の進化は,喉仏である。喉仏が長くなり,音の高低を付けることができるようになった。
 自然界で単独で生きていく上では,表情や感情を持つことは,圧倒的に不利である。自分の仲間以外の動物と出会ったときに,攻撃や威嚇を示す怒り以外の感情や表情は不要だからである。怒り以外の感情や表情,たとえば,笑いや悲哀などは,仲間との意志疎通のためにある。表情を持ち,声の高低で,仲間との意志の疎通を図り,集団で互いを助け合う。このスタイルは,霊長類が,木から降りて二足歩行を始めるはるか以前に身に付けたものである。道具の使用や言葉の使用は,そのはるか後の話である。言葉を持つ前から,表情と声の調子で,仲間の意図を酌みながら共同作業をしていたのである
 本書は,ソーシャル・スキル・トレーニング(以下,SSTと呼ぶ)やソーシャル・スキル教育についての本である。にもかかわらず,「ソーシャル・スキル」とせず,あえて「対人スキル」の名称を設けることにした。なぜか。
 本書では,「対人スキル」を,狭義のSSTで用いるソーシャル・スキルだけではなく,少し広げて,行動のみならず,情動(感情),認知(思考)へのアプローチを含む広い意味でのソーシャル・スキルの問題と問題の解決方法を意識し,強調したいと考えたからである。
 現代の子どもたちの不適応を見ていると,人類の祖先としての基礎,基本,つまり,仲間と意思疎通を図り,密接に関係を結びたいとの意志と,感情の扱いが危ういと思うからである。そこへのアプローチを意識し,強調するために,あえて「対人スキル」の名称を用いて,本書を編纂することにした。
 本書は,3部に分かれる。
 Ⅰ部では,対人スキルの問題にまつわる理論として,認知(思考),行動(行為),情動(感情)といった3側面からとらえることが強調される。えてして,ソーシャル・スキルを表面的な行動のこととして漠然ととらえている場合があるからである。そこで,思考面や感情面を強調することにした。
 Ⅱ部では,具体的な実践や事例を交えながら,カウンセラーや教員が問題を抱える個々の子どもたちにかかわっていく場合のノウハウが記載される。
 Ⅲ部では,学校の教育活動の中で,教員や学校組織が,どのように子どもたちの対人スキルアップを意識してかかわっていくのかの具体的な姿勢や指導技法を記載される。
 資料編では,ソーシャル・スキル教育の授業の指導シナリオを豊かに提示している。
 本書の読み進め方であるが,第Ⅰ部は,理論編であり,研究者が手元に置いておいても役立てるように書いたつもりである。それだけに難解であるかもしれない。臨床現場の教育相談員やカウンセラーや教師の場合は,むしろ,第Ⅱ部から読み始め,改めて第Ⅰ部を読む方が良いかもしれない。
 執筆陣は,カウンセラー,教師として一流の布陣にお願いした。理論は,臨床や教育現場の実践に鍛えられて育つものである。したがって,執筆陣には,机上の空論ではなく,実践の中から記述することを求めた。本書のために,新たに開発した授業の指導シナリオもある。それらは,いずれもいくつかの学級で実践し,効果を確かめたものである。ただし,指導者の授業レベルが総じて高いものが要求されるシナリオが多い。力量のない教師や,人間関係づくりが十分でない学級での適用には,慎重になってほしいものもある。
 もちろん,これまでのソーシャル・スキル教育に飽き足らない教師や,SSTの基本がわかっているカウンセラーには,アドバンスコースとして勧めたい。

平成19年3月吉日  小林正幸