訳者あとがき

私はなぜこの本を訳したのか 導入編

 私は,犯罪「学」者である。

 立教大学の刑事学という講義で,この本を教科書として使っている。刑事学の授業では,「エビデンスに基づく刑事政策」を教えている。講義の狙いは,実際に行なわれている,さまざまな犯罪対策を,法的正義に合致しているかどうかというような信念の問題ではなく,犯罪の予防や再犯の防止といったリアルなアウトカムに照らして有効かどうかという実証の問題として取り扱うことである。授業の到達点として,特定の犯罪対策の効果を検証した英文の論文を,批判的吟味を用いて読み解けるところに設定した。
 法学部の授業としては相当にユニークであり,統計学の基礎が全くない,法学部の学生は苦労する。しかし,立教大学の学生はみな優秀で,社会科学の基礎的方法論について教えた後,この本を用いて批判的吟味について教えると,正確に論文を読み解く学生が続出した。
 こんなふうに手ごたえがあったので,翻訳することにした。私が勤務する,静岡県立大学の大学院に在籍していた,尾山滋くんが下訳をしてくれた。彼の正確な翻訳に驚かされたところも多い。私が全面的に手を加えたことによって,そのよさが損なわれていないことを祈る。
 エビデンスに基づく医療(EBM)をはじめとして,エビデンスに基づく云々という取り組みはさまざまな分野で行なわれている。上記の,エビデンスに基づく刑事政策もその一つだ。エビデンスという用語には,いろいろな定義が与えられているが,ここでは,「バイアスをできる限り排除して得られた研究結果」という定義としたい。
 つまり,批判的吟味とは,その研究がどれだけバイアスを排除しているかを読み解く手法である。バイアスがきちんと排除されていれば,エビデンスの質は高く,きちんと排除されていなければ,エビデンスの質は低い。本書は,それぞれの研究が,どれだけバイアスを排除しているかを確認するために,研究に対して投げかけるべき問いが,研究方法ごとに列挙している。
私の見るところ,この本が優れているのは,次の2点である。

 1 投げかけるべき問いに,適切な説明が付いている
 ウェブ検索をすれば,研究デザインごとのチェックリストは簡単に見つかるが,それぞれの問いの意義について,説明が付いているわけではない。本書の強みは,それぞれの問いに,統計学を本格的に学んでいない者でも直感的に分かる,簡明な説明が付いていることである。つまり,本書を読めば,チェックリストを見るだけでは身に付かない,応用度の高い批判的吟味の能力が身に付く。

 2 投げかけるべき問いが,構造化されている
 本書では,まず,第6章で,研究手法が何であるかに関わらず,問わなければならない「標準的な問い」が列挙され,さらに,第7章以降で,研究手法ごとの問いが,それも,「本質的な問い」と「具体的な問い」に分けて提示されている。研究手法ごとに用意されたチェックリストを眺めたところで,これらの問いが,このように構造化されていることには気づけない。しかし,この構造を理解することで,批判的吟味というものについての理解が深まるのだ。

私はなぜこの本を訳したのか 本質編

 要は,批判的吟味を大切だと思っているからである。それにはいくつもの答えがあるが,まず,そのいくつかを書いてみよう。

 1 批判的吟味は,知識ではなく,能力である
 どんな医療介入が有効かという「知識」は,絶えず更新される,つまり,知識は陳腐化する。よって,知識を身に付けることよりも,知識を入手する「能力」を身に付けることのほうが,つまり,情報を身に付けることよりも,情報の読み解き方(情報リテラシー)を身に付けることのほうが大事である。

 2 批判的吟味は,エビデンスの質の判断基準を与える
 批判的吟味は,エビデンスの質の判断基準を与える。つまり,批判的吟味は,誰もが同じ一連の問いかけをすることによって,研究のどこに着目すべきかを指し示し,エビデンスの質の判断から,主観というバイアスを排除する仕組みである。エビデンスを用いようとする者の思考を構造化すると言ってもよい。

 3 批判的吟味は,エビデンスの利用者が自ら判断する姿勢を養う
 批判的吟味が提供するのは,「問い」であって,「答え」ではない。つまり,批判的吟味が提供するのは,エビデンスの消費者が自ら,エビデンスの質を,研究手法ごとに用意された一連の問いを用いて考える機会である。つまり,批判的吟味は,エビデンスの消費者の主体性を高める。

 4 批判的吟味は,研究の質を向上する
 批判的吟味が益をもたらすのは,研究の消費者だけではない。批判的吟味は,このような問いを,研究の生産者に意識させることを通じて,研究の質を向上する。つまり,批判的吟味は,研究の品質管理の手法でもある。

 などと,当たり前のことを書いてきたが,私がこの本を訳すことを決めたのは,ある決定的な「できごと」があったからである。
 ちょうど,1年位前,私は,学校における薬物の乱用防止教育の有効性について講演をすることになり,どんなプログラムが有効であるかを調べていた。アメリカには,系統的レビューを行なって,有効と認定したプログラムをModel Programsとして推奨する,公的なサイトがいくつもある。こうしたサイトを見れば,どんなプログラムが有効であるかは分かるだろうと,私は簡単に考えていた。
 ところが,そうではなかった。たしかに,サイトはある。そこには,Model Programsが掲げてある。しかし,原著論文にあたってみると,怪しい論文だらけだったのである。たとえば,薬物乱用防止教育について,こうした公的サイトでは必ず推奨されている,Life Skills Training (LST)というプログラムがある。
 このLSTについて,最も知られた研究は,5,954人を対象者にし,6年間,追跡を行なったというフィールド実験である。ところが,この研究を仔細に読むと,プログラム実施の質と,アウトカムが関連しているということを,「脚注」(!)で認めつつ,どういうわけか,実施の質が高かった対象者,3,684人にのみ分析を限定している。
 つまり,この研究は,本書の「治療の意図(intention to treat)に沿って結果を分析しているか」という問いに,「分析している」とは答えられない。
 また,マリファナ使用について,2つの介入群の得点(1.51点と1.54点)と統制群の得点(1.66点)の間には,統計的に有意な差はあるが,実際的には無意味である。というのは,マリファナ使用は,1点は「一度も使用したことがない」,2点は「かつて使用したことはあるが今は使用していない」を意味しており,介入しようとしまいと,平均的には,現時点では,誰もマリファナを使用していないからである。
 つまり,この研究は,本書の「自分の実務に対して,研究結果のもつ意義は何か」という問いに,「意義がある」とは答えられない。
 エビデンスに基づく医療をはじめ,さまざまなエビデンスに基づく取り組みは,こうした公的サイトが提供する,二次的なエビデンスに対する信頼のうえに成り立っている。しかし,こうした事例は,公的サイトが提供する二次的なエビデンスに,無条件の信頼を抱くのは危険であることを示している。
 一人ひとりの市民が,批判的吟味の手法を身に付けることにより,少しずつ,エビデンスに基づく社会が実現していくものと思う。本書は,その一歩である。