『あとがきにかえて』

園田雅代

 本書を通じて,女性に関する種々の問題に対しジェンダーを介在させることで,その本質や実情がより鮮明に捉えられること,つまり,個人の,もしくは個人間の問題としてのみ矮小化されてしまうのでなく,それらの問題が包括的な文脈に沿って捉えやすくなることが明示されたと総括できよう。また,そういった問題への援助・対処の仕方について,より社会的な視点を兼ね備えられるようになることについても十分に示唆されたと思われる。
 あわせて,個人の発達を生涯発達的に捉えていく重要性,特に「人と人との関わり合い」「関係の質」という視座から見ていく必要性についても,明快に提示されたのではないだろうか。
 平木(2000)は「現存の社会的・文化的文脈の中では,セラピストが優位な立場に立つ現実から逃れることは非常に難しい」「男性のみならず,自分の優位性に無自覚なセラピストは,男性優位社会の差別構造を面接場面にも持ち込む危険性がある」と警鐘を鳴らした。そしてそれを超克するには「ジェンダー差別のある社会におけるセラピスト自身のジェンダーと優位性を自覚すること」こと,さらに「アサーション(自他相互尊重の考え方と自己表現法)の精神を生かしてセラピーに取り組むこと,特にジェンダー差別にはこの思想とアプローチをしっかり身に付けることが大いに役立つ」と論じている。
 差別はされる側に比べて,している側がそれに気づきにくいこと,また劣位な立場に置かれている者に対し,優位な立場のものがその不平等性を感知しにくいことは世の常である。セラピスト各人が今一度,たとえば本書P. 51,表2に挙げられている問いについて,虚心坦懐に自問するところから始めていけたらと思う。特に女性セラピストの場合,心理臨床という営みが他者を心理的に,かつ人間関係を通して援助していくものであるために「適性として女性に向いている職」といった通念に,無自覚のまま嵌まり込みやすい面があるだろう。また職場によっては十全な身分保障といったものがなされておらず,セラピストというのが決して特権的な職には見えないがために,かえってセラピストの持つ「優位性」に気づきにくい面もあるかもしれない。無藤は本書において「社会文化的要因と多声にセンシティヴなジェンダー・センシティヴィティ」(P. 50)と定位しているが,それをクライエントに対して持てるために,まずセラピスト自身(ならびにその職をめざす者)が,自分のジェンダー観などに鋭敏であり,自己検討を怠らないようにしたいと思う。
 セラピストのこのような自己検討とあわせて,職場や種々のワーキンググループなどにおいて,互いの言動や態度などに率直な助言や提言などを行っていくことも大切にしていきたいと感ずる。確信犯はいざ知らず,個人が自分のジェンダー観などに焦点を当てて意識化するのは一般になかなか難しいことでもある。互いに助言・提言をし合い――これは,一方的な非難や断罪であるべきではない。もし「あなたのジェンダー観は間違っている」「ただちに直すべきである」と教条的に責め立てるような態度をとるならば,皮肉にも,その人自身が,「多声」に開かれていないことを端的に表すことになろう――そしてそれらに耳を傾け合う態度や,ひいてはそういったやりとりを自然なこととする風土の醸成などは,必ずクライエントにとっても有益なことと思われる。具体的には,「セラピスト対クライエント」という関係性のみならず,「治療チーム」などのあり方が,クライエントにとって無言の型はめやジェンダー・バイアスの再生産になっていないかといった振り返りが必要になるであろう。職場の現状など,個人の力で即座に変えられないことは多々あると思われるが,しかし,その視点を有しているセラピストであれば,クライエントへの関わりや他スタッフとの関係において,差別のお先棒を担いだり,ジェンダー・バイアスを強化したりするようなことは少なくとも避けられるに違いない。
 自覚や問題意識を持ち,一方で現状がままならないことは,人を葛藤状態に置かざるを得ず,その葛藤を抱え持ちながら日々を生きることは真にエネルギーの要ることでもある。が,「多様な葛藤に直面してきた力が(中略)今生きる上の原動力になっている」(黒川,本書P. 190)といった記載の一文について,改めて励まされる思いがするのは筆者一人ではあるまい。
 最後に,本書とフェミニストセラピーとの関係について思うところを簡単に付記したい。Worell & Johnson(2001)はフェミニストセラピーについて「統一された定義はなくいろいろな理論とセラピーの方法が提案されてきた」と述べつつも,「繰り返し現れる3つのテーマを見出した」とし,それらについて,①セラピーの過程,評価,結果における重要な要素としてのジェンダー,②精神内的な観点に加えて女性の生活の社会文化的な理解,③セラピーの目標としてのエンパワーメント,の3点を整理し提示している。柏木(2000)が言うように,「女性の行動を社会的(政治的)背景の中で捉え,『当たり前の要求を持ったトータルな一人の人間』である女性クライエントとセラピストが,対等の立場で治療を進行させることを特徴とするフェミニストカウンセリング(フェミニストセラピー)には,社会文化的視点およびジェンダーの視点が鮮明」であることは間違いない。以上の事柄に立脚するかぎり,本書を広義のフェミニストセラピーに位置づけてもよいのかもしれない。ただ,往々にしてフェミニストセラピーというときに,その基本理念の第一として強調されるのが,「治療―被治療の関係,指導―被指導の関係などの上下関係をできるだけ廃し」ていこうという意味での,「平場(ひらば)性」である(高畠,2004)。この「平場性」とは実に魅力的な理念ではあるが,下手をすると,上述したセラピストの「優位性」やジェンダー・バイアスなどの問題をかえって見えにくくさせてしまいはしないかという懸念も残る。換言すると,①セラピストとしての専門性やアカウンタビリティといった問題と,②対人援助における人間としての平等性,ならびに,個々人の違いや多様なあり方への柔軟性や想像力の保持という,①と②の2つの事柄がどう併存可能なのかというテーマについて,現時点ではフェミニストセラピーを掲げないほうが検討をより深めていきやすい面があるのではないか,と感じたりもする。となると,本書はフェミニストセラピーとは一線を画すものである,と位置づけておいたほうが無難かもしれない。この種の問題については,今後もぜひ検討していきたいと考えるものである。
……(後略)