『訳者あとがき』

 この本は,Michael White and Alice Morgan: Narrative Therapy with Children and their Families. Dulwich Centre Publications, Adelaide, South Australia, 2006 の全訳です。子どもとのセラピーについては,最高の一冊だと思います。ダルウィッチ・センター入門書シリーズ第3弾と言ってもいいでしょう。著者のマイケル・ホワイトとアリス・モーガンについては,それぞれ『ナラティヴ・プラクティスとエキゾチックな人生』『ナラティヴ・セラピーって何?』での紹介を参照ください。金剛出版HP上の訳者あとがきなどで読めます。
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 では,内容を簡単に紹介しておきましょう。第1章「子どものいる家族とのナラティヴ・プラクティス:外在化再訪」では,子どものケースが3例,原書で56頁にわたり詳細にかつビビッドに記述されています。ヴィゴツキーを援用して,セラピーが「発達の最近接領域」を越えることだと提唱するところが,意欲的です。
 第2章「子どもたちやその家族と仕事をするときのセラピストの立場」では,セラピーにおいてジレンマを感じるのは,セラピストの立場に迷いがあるときだと提唱しています。セラピストの立場としては,影響力が有るか無いか,中心化されているか脱中心化されているかによって,四つのタイプが想定されています。もちろん,ナラティヴ・セラピストとしては,脱中心化されながらも影響力を維持するタイプが好まれています。各タイプごとにケースを付しながら,論が進められます。
 第3章「重大なトラウマを経験した子どもたちに対応する:ナラティヴ・パースペクティヴ」は,重大なトラウマを抱えた子どもとの仕事に関するインタビュー。子どもたちがトラウマについて語るには,安全な文脈が必須であり,そのためには,トラウマによって定義されたアイデンティティとは別のアイデンティティが用意されていなければならないといいます。具体的には,トラウマ,およびトラウマによる影響についての第一のストーリーとは別に,それに対して子どもたちがどのように対処したのかという第二のストーリーが展開されなければなりません。そして,その第二のストーリーであきらかにされる子どもたちのスキルや価値観が,彼らの文化,家族,コミュニティ,そして歴史に深く結びついていることが語られてこそ,そのストーリーは,分厚くなるというわけです。
 第4章「子どもたち好みのストーリーの聴衆を創造する」は,多彩な問題行動を示す9歳の女の子の面接を例に,いかにして好意的聴衆を集めるかという技術が,手紙,スピーカーフォーンでのやりとりを交えて紹介されています。
 最後に,第5章「親と子,児童保護機関と家族の共同作業を促す」と題されたインタビューでは,まず,葛藤の高い親子の面接における外在化の有効性が語られます。訴えの背景にある親の心配を引き出し,それを子どもが共有できれば,そこに会話は展開し,それが共有されないのであれば,その理由を子どもに訊ねる会話に誘導するなど。また,子どもが問題を持つ場合,親(特に母親)が非難される文化においては,子どもたちの達成に焦点をあて,そこに反映されている親の貢献を引き出すことが,その解毒剤になるといいます。児童保護機関職員と親との協力については,たとえば事前に親を集めた集会の開催を評価しながら,親に「安全」とか「責任」という概念が共有されることの重要性が主張されています。

 ナラティヴと子どもについて。「外在化する会話」が遺糞症の子どもの家族面接で始まったことからだけでなく,『新しいスクール・カウンセリング』で示されたオルタナティヴ・ストーリーの流布の重要性や好意的聴衆の強調(つまりは,評判!)によって,子どもとナラティヴの相性の良さは,ぼくの感じるところ,確定的でした。そして,さらに今回,アウトサイダー・ウィットネス実践の提示によって,それは,より強い確信となりました。第4章のエボニーをお読み下さい。人は,大人よりも子どもに対してのほうが語りやすいからでしょうか。本書,156頁をもう一度ここに引用しておきましょう。
共鳴というのは,中心点から発して,他の物体に触れるたびにあちこちに跳ね返る点で,音波に似ていると思います。跳ね返ったり何かに触れたりするたびに,音はより強くなったり,あるいは,人の耳により入りやすくなったり認識されやすくなります。私のした質問は,エボニーが大切にしてきたテーマや取り組みが他者(たとえばデックリン氏)の人生に触れるよう意図されていました。それらが他者の人生に触れてエボニーに跳ね返ってきたとき,彼女が大事にしていた価値観はますます明確になり,目に見えるものになったのです。このプロセスを通じて,人々はまるで,より「同じ波長をもつ」ようになるみたいです。イメージは,あちこちに跳ね返るたびに,より明確で,より目に見えるようになり,輪郭もよりはっきりします。
 でも,これは,なにも子どもだけに限られるものではありません。たとえば,ぼくたちの「死の心理教育」において演じられた「Dancing with Mr. D.」(死を司どっている男が自らの仕事に不全感を抱き,自分は失敗者だと嘆いて精神科医に相談に来たというシナリオ)の観劇後,あるナースは,こんなふうに語りました。「ミスターDとしては,仕事を誠実にやりたいのだけれど,死を人に与えると嫌われ,複雑な気持ちでいることが,印象的でした。『死によってすべてが終わるわけではないと人々に教えること』が,彼の価値観でしょう。死をマイナスのものとだけ捉えないように示唆してもいます。わたしも,死を怖いもの,嫌悪するものとだけ捉えるのではなく,別の視点から見つめることが大切だと感じました」リ・メンバリングの音波がミスターDからナースたちに届き,そこで跳ね返り,またミスターDのところへ戻ってくる。このような共鳴によって,治療文化が作れるのだとしたら,それ以上のものはありません。関心のある方は,次のサイトにアクセスして下さい。 http://www.pref.aichi.jp/cancer-center/200/235/index.html
……(後略)

2007年7月 訳者を代表して  小森 康永