『ふり返って思うこと――再版にあたって――

 この小冊子は事情があってしばらく絶版になっていたが,このたび金剛出版の御好意によりふたたび陽の目をみることになった。私にとって心にかかっていた念願の一つが実現されたわけである。本書の初版は1981年に精神科選書の一冊として診療新社から出版された。当時名古屋大学医学部精神医学教室の教授であった笠原嘉先生が,まったく無名であった私に執筆の機会を与えてくださったもので,40歳を目前にして私がはじめて書いた本である。私は30歳台はじめから半ば過ぎまで,精神科の助手として大学病院に勤務し,入局してくる若い精神科医や心理臨床家に精神療法のクルズスを行ったり,ともに患者を担当したりしつつ,おりおり質問されることや自身疑問に思ったりしたことをメモに書きとめていた。本書はそのメモをもとに書き上げたものである。小冊子の入門書という本書の性質上,本来もっと実質的な議論を展開すべきところでも簡単に述べるにとどまらざるをえないところが多かった。今読み返してみると,本書は読者に対するというより,私自身のための一種の覚え書き,のちに詳しく論じるためのきっかけだったのだと思われる。実はこういう気持ちは執筆のときからあった。友人に,精神療法の「初歩」とか「入門」とかでなく「第一歩」としたのはなぜかと問われて,いずれ自分に力がついたら「二歩,三歩」とか「四歩,五歩」を書きたいからだと答えたのを覚えている。本書を将来への約束としたかったのである。(もっともその友人には,「そりゃやめた方がよい。『第一歩』が一番ましだったということになりかねないから」,と言われたが。)実際この小冊子には私のその後の思考のほとんどが芽を出している。私のその後の仕事は,その芽のいくつかを引っ張り出して育てようとした試みであった。今回再版にあたって元の形をとどめておきたかったので本文には若干の字句修正を施すにとどめたが,補注や付章という形で現在の私の考えの一端をつけ加え,それに関連したその後に私の書いたもののいくつかを紹介した。その作業を通して本書が私の出発点であったとあらためて感じた。私が本書に愛着を感じる理由もそこにあると思う。
 本書が私にとって思い出深い本である理由はほかにもある。その一つは,本書の文章には私が若いころ読んでいたロジャーズや人間学派の匂いが感じられることである。私はその後しだいに精神分析への関心を深めてきたのだが,今も人間学には心惹かれるところがあって,本書の匂いがなつかしく思われ,遅すぎたきらいのある自分の青春をふり返るような感じがした。
 もう一つは本書を書いたことで何人かのすぐれた先輩とお知り合いになれたことである。その第一は故下坂幸三先生である。本書出版後まもなく下坂先生は「精神療法」誌に書評を書いてくださった(精神療法,8(3):296-298, 1982)そのおわりのところを引用することをお許し願いたい。
 「さいきんどの大学でも新入局員のためのクルズスをやっている。この本は新入局員のためのクルズスのテキストとして最適な本ではなかろうか。そして一読された方は精神療法の食わずぎらいの方々にもぜひ本書をすすめてほしい。本書はそういう食わずぎらいをなおす効果のある清涼の気を十分見せている名著である」
 斯界の先達から贈られたこの言葉に私がどれほど勇気づけられたかはかりしれない。(もちろん下坂先生は誉めてくださっただけではない。正鵠を射た批判もいくつかされている。その一部は補注1,2に記した。)その後下坂先生にはいろいろな機会にお声をかけていただき,先生の始められた精神療法セミナーにも講師として加えていただいた。先生が亡くなられた後もこのセミナーは成田セミナーとして存続している。
 この本が引き合わせてくれたもう一人の先輩が神田橋條治先生である。先生は本書を読んで私に関心をもたれ,当時在籍しておられた九州大学精神科の研究会に私を呼んでくださった。私にとってごく身内の会は別として専門家の前で話をするほとんどはじめての機会だった。ちょうど「精神療法」誌の「精神療法の深さ」という特集に寄稿することになっていたので,その話をさせてもらい,そのときの神田橋先生のコメントの一部を原稿にとり入れさせてもらった。(精神療法の深さ,精神療法,8(4):319-326, 1982)その後神田橋先生には私どものセミナーの講師に来ていただいたり,互いに著書を送ったり送られたりするおつき合いをさせていただいている。
 ほかにも本書を新人教育のテキストに使っていると言ってくださった精神科医や臨床心理士の方々は何人かある。本書が私の人間関係をひろげてくれたのである。
 ともあれ本書の初版が出版されてからすでに四半世紀以上の歳月が流れた。初版を書いたときには39歳だった私は66歳になった。髪は白くなり,記憶力も視力も衰えた。しかし私は本書で提示した問題について現在も考え続けている。その意味で本書は私にとって依然として新鮮である。本書を手にとってくださる新しい読者の方々にも本書が新鮮であることを願う。

2007年7月 成田善弘