訳者あとがき

 精神分析の論争のなかで,“analytic parkinsonism”(精神分析のパーキンソン病)という言葉が流行ったことがある。精神分析の訓練を受けると,治療者がみんなパーキンソン病のように無表情になってしまうという比喩である。そんなふうにある時期から,禁欲規則などを中心とする治療者の基本的態度は教条的であり,そこから逸脱することのほうがむしろ人間的なのではないかという論争があった。
 原則ばかりに捉われ,治療の弊害となるような理論は見直すべきであるというレニックの主張はある意味では当然のもので,共感や情緒の交流を大事にする日本の文化では受け入れられやすいだろう。レニックは本書を,公式の分析訓練を受けた人というより精神分析的な知識のある心理療法家をターゲットにしていると述べている。それは彼が,治療にとって何が実践的であるかを問うことを,どんなに重視しているかを示している。しかしレニックはその一方で,治療者の基本的態度を,かつては戒律のように重視していた米国精神分析の古典的な流れを背景にしながら,自己開示や提供モデルを主張してきたのである。そして逆転移の論争が脚光を浴びる中,従来の理論を単に壊すのではなく,中立性や匿名性などの治療態度に関する意義を再確認しながら,権威を受け継ぐだけの原則を捨てようとすることで,毎日の臨床ですぐに役立つ「実践的精神分析」の扉を開いたのだ。
 レニックによれば,治療者が何をなぜ行っているのかを患者に説明することによって,治療関係の基本原則が確立される。そして彼は治療者自身の治療体験を患者に報告することを「カードを表にすること」に喩え,治療における出来事を共有する重要性を強調している。従来「カードを表にすること」は,転移分析に対する妨害を引き起こすと古典的に信じられていたが,治療者に関する個人的なこと,たとえば治療者の休みについて情報を与えることが転移空想をまったく妨げてしまうかと言えば,そうとは限らない。情報を与えれば別の空想が生じてくるかもしれないし,逆にそれ以上広がるという保証もないが,少なくとも通常の人間関係から見て不可解で不自然になるようなふるまいを治療者が強いられることは少なくなる。そしてレニックはそうした自己開示によって安心感を与えることが,むしろそれまでまったく意識されていなかった空想に患者が気づく契機になるというのである。
 私たちは自由連想を進めるときにいろいろな介入をしているが,その介入はレニックの言うように,つねに自分自身の個人的な考えや体験を基盤にしている。そうした治療者自身の個人的な見解というのは,逆転移として意識するまでもなく,ごく自然に開示されてしまっているのだ。そんなふうに,治療者の理論的な選択や個人的な心理状態などが積み重なって,治療のストーリーが展開していく。そのなかから技法的に悪いものだけを排除することができるだろうか。たとえば,患者を理解しようとする前に治療者が自分自身も同じような体験をしたという過去があるとすれば,それが患者の理解に影響を及ぼすのを防ぐことはできないだろう。エナクトメントは,そうした双方の無意識的動機づけにおける相互作用としてむしろ避けなければならないものとされていたが,言葉で理解するというより体験してしまうものなので,治療者はそこで起こっていたことについて後から克明に自己分析していくしかない。しかし今ではそれが,治療の相互作用を解明するひとつの技法として軽視できないものとなったのだ。
 レニックがそのほかの治療実践として重視しているのが,症状軽減と治療利益という概念である。これは治療関係の基本原則を確立するためにじつに実践的なものでありながら,どちらかといえばあまり取り上げられてこなかったが,ラルフ(第2章)のたった1回の治療のように,何が症状で,症状がなくなるとはどういう状態なのかを話し合うことは,患者の自己探求にとってかなり有益な助けとなる。また,洞察の達成を目指すという分析家側の古典的な利益ではなく,意識的な水準で治療が患者にとって利益となることはたしかに重要である。レニックの論考には,そうした治療関係の基本原則に関する特徴的なものがあるが,これも彼の主張する,患者が真に求めるものを提供しようという基本的な治療者の姿勢であろう。
(……後略)

2007年8月  小此木加江