まえがき

 『分裂病者の行動特性』の初版が出たのは1989年3月である。幸い,細々とではあるが,今日まで増刷を重ねてきた。この間に,精神分裂病という呼称が統合失調症に変わり,2001年5月にはICF(国際生活機能分類)がWHOで採択される,といった大きな変化があったため,今回,改訂増補版を出すことになった。
 増補した部分は本書の第Ⅰ部第1章で,『新世紀の精神科治療』(中山書店,2002年)に収載された「統合失調症患者の行動や生活の特徴とICF」と題する拙稿に多少,手を加えたものである。
 現在,統合失調症治療の中心的な場が,入院から外来へ,さらには家庭や地域という生活の場へと急速に移行しつつある。治療者側は,統合失調症患者が社会生活のなかでしめす行動や生活の特性をふまえ,それに沿った適切な支援をすることが今まで以上に求められるようになった。そういう状況下でICFが採択され,現場で活用されていくことの意義は大きい。それに伴い,これまで行ってきた社会生活支援の諸活動も,ICFにそって目標や位置づけを再検討する必要がある。
 19世紀後半にグリージンガーを偉大な教組として,精神病はいずれ脳の形態・機能的変化として解明できる,と信じる「脳神話」の時代があった。世界中の学者たちが精力的に研究を競ったが,その多くが徒労に終わった。その後,「脳神話」はきびしく批判され,「生物学主義」の研究自体も白眼視された。フロイトによる精神分析学の出現を大きな契機として心理学主義や社会学主義,さらには「精神病は政治的なフィクションにすぎない」とする反精神医学にまで歴史の振り子は大きく揺れたが,やがて振り子はもどり,現代は第二の「脳神話」の時代に入っている。告白すれば,私もまた,現代の「脳神話」の隠れ信者のひとりである。
初版の脱稿後,1980年代後半からイギリスのバロン=コーエンその他による「心の理論」の研究成果が次々と発表され,1996年にはイタリアのリゾラッティらによる「ミラーニューロン」の発見という画期的な出来事があった。第Ⅱ部第2章「二 常識と共感覚」などは,「心の理論」や「ミラーニューロン」の知見と関連づけながら読んでいただけると,より興味ぶかく読めるかもしれない。
 第Ⅲ部第2章「四 時間性」では,ハイデガーら哲学者の「間主観性」や「時間性」の概念を持ち出したり,「関連機能」という勝手な造語を用いたりして,それまでの泥臭い臨床記載に「木に竹を接ぐ」格好になっているのが,改訂の際にも気になった。しかしハイデガーが「現存在」や「時間性」ということばで論じようとしたことと,一臨床医として私が現場で感じたことを脳科学のことばで統一的に説明できるようになるのは,まだまだ先の話のようだ。最近では脳科学者の茂木健一郎が「クオリア」をキーワードに,意識とは何か,「私」はどう生成されるのか,といった問題領域にも積極的に発言しているので,今後の脳科学の進展を期待をこめて見守りたい。
……(後略)

2007年9月  著  者