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改訂版まえがき

 わが国では,年間自殺者数が1998年に32,863人になって以来,年間自殺者数3万人台という緊急事態が続いている。改訂版執筆時に入手可能な最新のデータは2006年のものであるが,この年には自殺者総数は32,155人であり,交通事故死者数(6,352人)の約5倍にものぼった。さらに,自殺未遂者は既遂者に比べて,少なく見積もっても10倍は存在する(40倍という推定すらある)。そして,自殺未遂や既遂が1件生じると,強い絆のあった人の最低5人は深刻な心理的打撃を受ける。したがって,自殺は死にゆく人3万人の問題にとどまらずに,わが国だけでも毎年,百数十万人の心の健康を脅かす深刻な事態になっている。
 本書「青少年のための自殺予防マニュアル」の初版は1999年に出版された。残念ながら,わが国の自殺の現状は相変わらず深刻である。こういった社会的背景から,2006年には自殺対策基本法が成立し,2007年には自殺総合対策大綱が発表された。自殺予防はけっして個人的な問題にとどまらず,社会全体で取り組むべき重要な課題であることが宣言されたのである。そして,ようやくさまざまな自殺予防活動が展開され始めた。
 わが国では40〜50歳台の自殺者が全体の約4割を占めていて,社会の関心の多くは働き盛りの自殺予防に向けられている。対照的に,未成年の自殺は全体の約2%と,その割合が比較的小さいために,十分な関心が払われてきたとは言い難い。しかし,この世代の健全な発達は,生涯にわたるメンタルヘルスと密接に関連する重要な課題であることは言うまでもない。子どもが発する「救いを求める叫び」を確実に受けとめることは,社会全体の責任である。
 他に類書がなかったためか,本書は教育現場の人に幅広く読まれた。「実はこの本を参考にして,自殺予防対策に当たってきた」と言われたり,各種の委員会に出席して,他の委員が本書を手にしているのを目にしたりしたことも再三であった。私はこれまでにこのような経験をしたことがなかった。
 本書の初版のまえがきの最後に私は次のように書いている。「なお,私自身,この本が完全だとは考えていない。精神科医療の専門家の立場からの発言が強すぎるという意見も当然あるだろう。この本のどの部分が学校の現場で今すぐに使うことができるのか,どの部分は直していかなければならないのか考えながら読んでいただきたい。そのように読んでいただければ,読者が関係している学校や地域の独自性に基づいた自殺予防プログラムができるはずである。本書が教育現場で少しでも参考になったならば,その経験をぜひ私にフィードバックしていただきたい。そして,それをもとにこの本をさらに現場のニーズに応えるものに改訂していきたいと考えている」
 幸い,この初版まえがきのように,これがきっかけとなって,新井肇先生,菊地まり先生,阪中淳子先生をはじめとする中学校や高等学校の多くの教員の皆さんと知り合うことができた。諸先生方は,教育の現場で自殺の危険の高い子どもの対応や,自殺予防教育に携わってこられた。今回,改訂版を出すにあたって,初版の持ち味を残しながらも,現場の声を反映させたいと考え,諸先生方に参加をお願いした次第である。
 なお,文部科学省も近年のわが国の自殺の実態を真剣にとらえて,2006年8月に,「児童生徒の自殺予防に向けた取組に関する検討会」を発足させた。そして,2007年3月には,「児童生徒の自殺予防に向けた取組に関する検討会」を招集し,2007年3月には「子どもの自殺予防の取組に向けて(第1次報告)」が発表され。本書の著者4人もこの検討会の委員であった。しばしばこの種の検討会はいわゆる有識者とされる人々が委員となって,あまり意味のない議論を繰り返して,最後に総論的な提言を出して終わるのだが,この検討会の委員は現場で実際に活動している人々が中心になっていた。そのために,議論も白熱したものになり,どのようにしてその成果を子どもの自殺予防に結びつけるかということに集中した。
 なお,この検討会が開かれている最中の2006年秋には,いわゆる「いじめ自殺」がマスメディアで大きく取り上げられた時期ともたまたま重なった。子どもの自殺というと,いつもはほとんど等閑視されているのに,ひとたび「いじめ」が関連しているとなると,マスメディアはいっせいに過熱した報道を始める。しかし,その熱気も2カ月もすると,すっかり冷え切ってしまう。子どもの自殺予防は非常に重要な問題であり,また,長期的にこの問題を取り上げていく必要があるというのが全委員の総意でもあった。
 さて,本書を読む前に,ぜひ初版まえがきを読んでいただきたい。その中に,本書の方針がほぼ書きつくされてある。改訂版では,初版のデータを補足してあるが,その大方針は大きく変わるものではない。それに加えて,最近になって始まりつつある現場における実際の活動についても紹介したい。
 すべての現場に一律に応用可能な完璧な自殺予防対策などは残念ながら存在しない。本書を読んだうえで,どの部分は実際に活用できるか,どの部分は修正が必要か,どの部分は使うことができないか,などと検討するための叩き台にしていただきたい。現場で必要とされているのは「今,ここで」という姿勢なのであって,「完璧」な自殺予防対策をないものねだりしても意味はない。「まず教師を対象として,子どもの自殺予防教育を始めよう」「子どもを直接対象としなければならない」「子どもの自殺が現実に起きてしまったときには,他の子どもに対するケアだけはしなければならない」「マスメディアにもぜひ協力してほしい」などと,教育現場の判断はさまざに異なるはずである。それぞれの教育現場で独自の自殺予防対策や自殺予防教育を推し進めることこそが重要である。
 人生を歩み出したばかりの子どもが自ら命を絶つということほど悲劇的なことはない。この問題に関心のある方は本書を読んで,それぞれの立場から,子どもの自殺予防のために何ができるのか考えていっていただきたい。

著者を代表して 2007年8月   高橋祥友

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