序にかえて

 小出浩之先生が,助教授(当時)として岐阜大学へ赴任されたのは,1989年1月だった。その頃の岐阜大学精神科は,若林愼一郎先生の下に,再建の途上にあった。当時を回顧して,若林先生は,次のように述べている。
 「わが岐阜大学医学部神経精神医学教室は,不幸にも,過去において,『胎児解剖実験』および『プロスタグランディン人体実験』その他の生物学的研究による不祥事によって,日本精神神経学会ならびに日本生物学的精神医学会から糾弾・批判を受けた。このような事態に鑑み,わが教室は精神医学本来の在り方に立ち戻るべく,精神医学の基盤である精神病理学を中核とする臨床精神医学教室の再建を目指してきた」(若林愼一郎教授退官記念論文集『思春期精神科症例集』金剛出版)
 精神病理学・地域医療・患者の人権を旗幟に掲げた教室の再建は,若林先生に小出先生が加わることによって,加速していった。その集大成として,1991年には第32回日本児童青年精神医学会(若林愼一郎会長)が,翌1992年には日本精神病理学会第15回大会(小出浩之会長)が,岐阜において開催されたのである。
 ここまでに切り拓かれた道筋は,1993年に小出先生が教授に昇任された後も,舗装され延長されていった。「われわれに要求されるものは,具体的な個々の現象の中に普遍的・一般的なものを発見し,逆に普遍的・一般的なものから具体的・個別的なものを思い浮かべる能力です」という理由から,教室の研究会(公開)は,症例検討を中心に据えることとなった。また,医局長は医局員の選挙によって決定され,教室と関連病院の人事は拡大医局会が選出した人事委員会によって,民主的に行われるようになった。
 他方で,小出先生は,研究のための研究には終始,批判的であった。そして,現在のDSM(アメリカのマニュアル精神医学)に代表される生物学的・計量的精神医学―mindless psychiatry―に疑問を感じている人が予想以上に多いことを知り,「本来の精神科医療・精神病理学を追求するわれわれの教室には今後も必ず入局者が増え続ける」と,確信しておられた。確信は現実となり,教室への入局を希望する医師が,全国から相継いで現れた。
 加えて,小出先生は社会の現状に対しても,批判的な眼を忘れなかった。とりわけ,心神喪失者等医療観察法案の国会採択をめぐる論争では,全国の精神医学講座主任教授たちのほとんどが沈黙を続ける中で,唯一人,患者の人権を擁護する立場から,この法案に敢然と反対を表明しておられた。教室でも,いわゆる触法精神障害者の問題についてシンポジウムを開催し,教室関係者の一人ひとりが,自らの考えを深化させていった。
 ところが,還暦を目前に控えた2002年10月,小出先生は帰宅途上に「突然,胸骨の裏側を叩かれるような痛み」を覚えた。診察の結果,胸部大動脈瘤切迫破裂と診断されたものの,人工血管置換術を受け,一命をとりとめることができた。しかし,脊髄への血流が断たれたため対麻痺が生じ,車椅子での生活を余儀なくされることになった。それでも,懸命のリハビリを続け,2003年4月には早くも復職を達成された。
 復職されてからも,小出先生は「俄片輪の繰り言」と断りつつ,研究費の獲得競争や病院機能評価などを指して,「医師も医療・教育ビジネスの中で,こき使われるニューブルーカラーとなるかもしれない」と,皮肉っておられた。研究費を稼ぐための研究,収益を上げるための臨床,義務のための教育という動向を目の前にして,「三十数年前の入局したての頃,こういう医学・医療に反対してきたわれわれの世代が,定年まぢかの教授や院長となった今,逆にそれを支えなくてはならない立場にたたされているのは誠に皮肉です」と,おっしゃるのだ。しかし,「こういう困難な現状の中でも,大学病院本来の研究・臨床・教育をやっていかなくてはならない」「医者はサラリーマンではなくて自由業だ,そうでないと正しいと思う医療はできない」―これらが,小出先生の信念だった。
 Mindless psychiatryは,必ずmindful psychiatryによって,奪回される。仮構の研究者が望まなくとも,国民がそれを望んでいる以上,このことは疑い得ない。小出先生が推し進められた,精神病理学に根ざした研究・地域に立脚した医療・一人ひとりの心と向き合う臨床教育を,私たちは受け継ぎ,発展させていくだけである。
……(略)

   小出浩之教授退官記念論文集編集委員会