訳者あとがき

 本訳書は,Freud and His Patients, edited by Mark Kanzer and Jules Glenn, Jason Aronson. New York, 1980からの翻訳である。合計450ページに及ぶ大著のため,翻訳では3分冊とし,すでに第Ⅰ部・序論,第Ⅱ部・ドラ,第Ⅲ部・少年ハンスは,「フロイト症例の再検討 Ⅰ」として,金剛出版より刊行されている。本訳書では,原著の第Ⅴ部・症例シュレーバーと,第Ⅳ部・狼男を収めてある。第Ⅵ部・ねずみ男,第Ⅶ部・全体の統括を収めた第3巻は,すでに翻訳を終えているので,やがて刊行される予定である。
 第1巻の「あとがき」で触れたように,原著Freud and His Patientsは,ニューヨーク精神分析協会の前身であるダウンステート精神分析協会の設立25周年を記念して刊行された。1974年の創立25周年にあたって,所属するメンバーたちの業績を集め,「互いに励まし合い,創造的能力をさらに豊かにするために」,4冊からなるシリーズが計画されたのである。
 フロイトの残した症例記録は,きわめて貴重なものである。患者たちとの交流のなかで,フロイトが何を体験し,何を考えていたか,そこからどのようにして精神分析理論を構築して行ったか。症例記録を読むことを通して,私たちはまさにその生きた現場に参与できるのである。
 周知の如く,精神分析はフロイト以降,著しい深化をとげて,今日に至っている。自我心理学,対象関係論,自己心理学,その他,各派の活躍がはなばなしいが,本書は主として自我心理学のその後の発展と,新資料の発掘を手がかりとして,フロイト症例の再検討を試みたものである。
 執筆者たちの手並みはいずれも鮮やかであり,フロイト症例の読みを一層精緻なものにする刺激に満ちている。私たちが本書を傍らにしてもう一度フロイト症例を読み返すなら,フロイトの理論形成の過程に含まれる天才的な閃きと同時に,あえて言うならフロイト自身の抱えていた盲点やら人間的弱さが読み取れて,津々たる興味を覚えずにはいられぬ筈である。
 本書では,シュレーバーに関する論文を集めた第Ⅰ部と,狼男に関する論文を集めた第Ⅱ部の終わりに,それぞれ編者カンザーとグレンによる各論文についての適切な紹介と考察が加えられている。したがって,ここではこれ以上訳者が蛇足を付け加えることは差し控えたい。ただ,全体の見通しを得るためには,まずこのカンザーとグレンによる「統合的な考察」から読み始める方が,理解に便利であることを付言しておきたい。
 幸いにして,本訳書が心の深い領域に関心を持つ人々に受け容れられて,フロイトの深層心理学がより広く理解される機縁ともなれば,訳者としてこれ以上の喜びはない。

2008年2月   馬場謙一