【第1話】ソフト・バット・ベリー・グッド

 カリフォルニアの朝の空気は独特の感触をもつ。ユーカリの木の匂いが混じったような,水温の低い太平洋の香りを含んだような。それらが明るい朝の光とブレンドされて,空気はこの地特有の表情を見せる。
 湿気をいくぶん含んだ朝の外気も,昼が近づくにつれ眩しく素直な光線にその主役を奪われる。ぐんぐん気温は上がり,光度は増していく。長い午後。そして夕方,太陽が雲のない西の空にしずかに退場したあとも,空気はしばらく,どことなくぼわーんとした暖かさを残す。
 そんなカリフォルニアで,ぼくはうだうだと14年間を過ごした。1973年から1987年までである。その間サンフランシスコとその近辺(ベイ・エリア)にはつごう11年暮らした。
 サンフランシスコから南に200qほど行ったあたりにモントレー(Monterey)という太平洋に面した街がある。ここは良港に恵まれ,いわしの缶詰工場があったことで有名だ。また,ここはジョン・スタインベックの小説の舞台にもなった場所で,彼の生まれたサリナスの町は東に向かってそう遠くはない。
 そのモントレーの南,海に面してすぐ隣にカーメル(Carmel)という小さいが実に美しい町があるが,そこはライトブルーの海と白い砂浜がある観光の町だ。俳優クリント・イーストウッドがかつて市長を務めたこともある。
 カーメルから太平洋を右手に眺めてさらに南下する。しばらく行くと,カリフォルニア一号線(Pacific Coast Highway)が山と海岸の間を縫うようにつづいている細長い区域に出る。この一帯は「ビッグ・サー」(Big Sur)と呼ばれ,昔から風光明媚で知られる。ここはいつの間にか多くの芸術家や小説家が好んで移り住む土地になった。
 澄んだ空気,きらきら光る直球のような光線,眼下に青々と広がる荘厳な太平洋,アメリカ杉やオークなどの高い木々が茂る森林と背後のサンタルシアの山々,そして熱い太陽の光でもさりげなくやり過ごせるオアシスのような木陰。もちろん木陰はビッグ・サーに限ったことではないが。
 とにかくここにはオレゴン・コーストの上をゆく,アメリカで最も美しい海岸線がある。
 この書の主人公,グレゴリー・ベイトソン(Gregory Bateson 1904-1980)もその晩年をこのビッグ・サーで過ごした。家を構えていたわけではない,あるところに身を寄せていたと言ったほうがいい。そこは宿泊施設を備えた一種のカルチャー・センターで,その名をエサレン・インスティテュート(Esalen Institute)といった。かつてのヒューマン・ポテンシャル・ムーヴメントの中で創設された私立の研修機関で,多くの若者たちをひきつけたカウンターカルチャーの一拠点として知られたところである。現在でもアート,東洋思想,代替医療,健康講座など,一年を通してワークショップを催している。
 ついでながら「エサレン」とは,かつてこの近辺に暮らしたインディアンから取った名前だそうだ。
1980年の冬――とはいえ昼は冬でも半袖でいいくらいだが――ぼくを含む数人の大学院生はこのエサレン・インスティテュートに2泊3日のセミナーに来ていた。グレゴリー・ベイトソンその人が教えるいわゆるベイトソン・セミナーだ。セミナーのタイトルは,ずばり「精神の生態学」(Steps to an Ecology of Mind)であった。
……(後略)