まずは,カリフォルニア州パロアルトでのある秋の午後について書こうと思う。当時,私は,家族療法を学ぶために留学したばかりだった。

 ……その日,メンタル・リサーチ・インスティチュート(MRI)の視聴覚教室は,大勢のスタッフとトレイニーで賑わっていた。甘さだけはどこにも負けない巨大なケーキが切り分けられて紙皿に載り,手から手へとわたる。人々は,プラスチックのフォークでケーキをくずしながら,隣の同僚と研究の進捗状況について話し込む。まるで,50年代の家族研究華やかなりし頃の映画を観ているようだ。違うのは,人々の話す内容と,初代所長ドン・ジャクソンの存在感ある写真が壁に飾られていることだけだろう。
 ブラインド越しには,ミドルフィールド・ロードを行き交う車が見える。すぐその先で交叉するユニヴァーシティ・アヴェニューは,目抜き通りといっても,駅までほんの一キロ,そのあいだには個人商店が並ぶだけだ。サンフランシスコから南へ車で小一時間。パロアルトは,スタンフォード大学のダウンタウン。一車線の道路が碁盤目状に交差する小さな町を,車もゆっくり静かに走る。
 人々はペアになって話し込み,雑談が続く。バニラ,ストロベリー,チョコレート,そしてコーヒーの香りが,部屋中にたちこめる。オーストラリアから来米中のマイケル・デュラントが,いそいそとプレゼンの準備を進める。ビデオの再生方式が自国と異なり多少手間取っても,誰も意に介さない。あくまでも,時間はゆっくり流れている。
 ようやく,最新の家族療法アプローチであるナラティヴ・モデルについての口演が始まった。思春期病棟で,いかにそれが実践されているのかという報告。当時小児科医であった私にはとても興味深いはずが,どこがそれほど新しいのか皆目分からず,きつねにつままれたような気分になった。わざわざ仕事を一年休んで留学した成果が,この先,得られるのだろうかという不安と後悔が,胸をよぎる。
 質疑応答に入ると,ジョン・ウィークランドが挙手し,ひとこと,こう言った。
 “How manipulative!”(「なんて操作的な!」)
そして,会場がどっと涌く。家族療法の老舗教育研究機関であるMRIに集った人々が,新しいナラティヴ・モデルというものに対して,それが生まれた背景やそれが宣言するもの,そしてそれに対する自らの立場などすべてをひっくるめて評するのに,あれ以上の言葉はないと今でも懐かしく憶い出す。

 その後,私がどのようにナラティヴ・セラピー(以下,ナラティヴ)を理解し実践してきたのか,それをこの本にまとめた。なにも一臨床家がそんなことなどしなくてもいいのだが,たまたま翻訳が好きでナラティヴの紹介を続けているうちに,なんとなくこういうことになった。これはナラティヴの副読本でもある。入門書には,アリス・モーガンの『ナラティヴ・セラピーって何?』がある。90年代後半まで,よくわからないけれど(あるいは,それゆえ)なぜか気になる心理療法的アプローチであったナラティヴが,その全体を眺望できるようになったのは,彼女のおかげである。
 ……各章冒頭のケースは,(1例を除き)さほど読まれることのない狭い領域の専門雑誌に報告したものである。治療実践は,小児心身医学,一般精神医療,そして緩和ケアの3領域にわたり,91年から07年のあいだのどこかで行われた。症例報告されるケースは元々特別なものだから,それが集められても,私のこれまでの臨床活動全体を表現するわけではない。諸種の事情により書けないことこそ,また特別に思い入れのあるものだが,それは本書の守備範囲外である。症例報告は「ユニークな結果」だ。20年近い月日のあいだの六つの点を結べば,私の志向性は,透けて見えることだろう。それを厚い記述にすべく,各章ごとに以下の三節を加えたので,ある意味,私の職業人としての人生に対するナラティヴな振り返りでもある。
 各章第二節では,ケースに適用した中心的会話技術Conversational Techniques について,自らの実践も踏まえて解説した。心理療法的に患者と関わるということは,(統合的にであれ折衷的にであれそれを行う以上)ある程度何らかの学派の作法にのっとって会話をするということなので,ありていに言えば,これが種あかしである。
 第三節では,それに関連する文学的価値Literary Meritsについて考えた。その基準には,イタロ・カルヴィーノの「つぎの千年紀に保存されなければならないいくつかの文学的な価値」を借用し,そのひとつひとつを章題にしている。私は,特にカルヴィーノの文学評論に心酔しているわけでも,彼の作品の熱心な読者というわけでもないが,自分なりに理解できる内容の手近な本ということで,選んだ。そこに記された文学的価値がナラティヴの中に容易に見つけられることに,読者は驚かれるかもしれない。心理療法における会話技術が文学の創作技術と重なる事実が,私には,なんだか楽しい。細く長いエビデンスか。
最後第四節には,ケースに対する自らの返礼実践Taking-it-back Practicesを試みた。これは,『セラピストの人生という物語』においてマイケル・ホワイトが提唱した,治療に関する二方向的説明である。治療において影響を受けるのはクライエントだけではなく,セラピストの人生も有形無形の影響を受けることを認定し,それに感謝の念を抱き,それをクライエントに返礼すべきだという実践。「逆転移」(ないし「共依存」,「未解決の原家族問題」,「システムのサンクションに対する脆弱性」など)として治療者自身の処理すべきものと考えられてきた現実を,多少なりとも描ければと思う。ケースが語られるのに「セラピスト込み」でなければどこか嘘くささが感じられる現代において,それをいかに語るか,バランス感覚こそが問われる。治療であれ報告であれ,何かひとつが突出した奇矯なものになっていないことを願う。以上,Bio-Psycho-Socialな(生物‐心理‐社会的)視点ならぬ,Conver-Liter-Backな(会話‐文学‐返礼的)視点による(1+3)×6=24の断片が,類書とは違う新味を持てればと思う。
「再訪」には「旅」のイメージが伴う。「人生という旅」もあれば,実際に地理的に移動する旅もある。付録として,後者のいわば巡礼の旅の記録を載せた。
書物には,読者をその世界に誘い込み,時を忘れさせるほどの楽しみを提供するものもあるが,私としては,読者は気がつくと本を閉じ自らの人生や仕事を振り返っている,というのであればと願う。事実,私自身,そういう本が好みだ。
(文献・注 略)

小森 康永