紹   介
精神病の精神分析的心理療法がもたらすもの

松木邦裕


 精神病――今日までの精神科臨床では統合失調症(Schizophrenia)がその主要疾患でありつづけていますが,この病にいかに取り組むかが精神医学本流の歴史そのものでした。
 現在こそ抗精神病薬が効力を発揮し,妄想,幻覚,自我障害等の陽性症状の改善に大きな効果をあげ,精神病治療に不可欠のものとなっていますが,1950年代までは薬物はごく部分的な対症的効果しかあげませんでした。それゆえ精神分析内での少数派とは言え,精神病への取り組みも真剣なものだったのです。米国でフェダーン,フロム−ライヒマン,サリバンら,英国でのロゼンフェルド,ビオン,スィーガルらの精神分析による治療はその時代のものです。彼らの貢献が今日の精神分析においても偉大な財産であることは述べるまでもありません。
 しかしながら時代は移り,統合失調症の治療は薬物とソーシャルスキル・トレーニング(SST),社会的施設ケアにおもに委ねられ,精神分析は治療の対象をパーソナリティ病理――たとえば境界性や自己愛性のパーソナリティ障害――に向けました。この潮流は今日も継続されています。
 だが精神病の精神分析的アプローチは,今日も世界各地で取り組まれています。たとえば,クライン派精神分析家のジャクソンは先頃までスカンジナビア地域で,有効な治療法として精神分析的心理療法の普及と発展に取り組んでいました。精神分析的心理療法の実践が命脈を確実に保ち続けているのは,個々人のこころを尊重する取り組みとして病者も治療者もこころを見つめ,触れ合わないではおれないときがあるからであろうと私は思っています。それは,ひととひとが出会ったときに生じる不可避な衝迫なのかもしれません。
 精神病,たとえば統合失調症に対してもこの病を脳の疾患として,骨折や慢性気管支炎と同じように,苦痛な症状を薬物で軽減しリハビリテーションや訓練でサポートするという純医学的方法論があります。この方法論そのものは大切なものであることは論を待ちません。しかしその上で考えるべきことがあります。それはこの方法論を展開できる基盤が精神病という病にあるのかという点です。現在統合失調症について,その脳の病因が骨折や慢性気管支炎のように確実に同定されているのかというと,答えは否です。その薬物が薬理理論通りに効果をあげているかというと否です。統合失調症にこの方法論が実践される基盤については未来進行形なのです。
 私自身,不幸な例に出会ったことがあります。関西の大学に通っていた若い女性が統合失調症を急性発症しました。大学病院にて入院治療を受けました。それは上述の純医学的方法論による最新版のものでした。フローチャート通りに治療はなされ,退院後彼女は実家に戻ることになり,そこで私の働く病院を受診してきました。診療して驚いたことに,陽性症状も思考障害もまったく改善していなかったのです。妄想と幻聴は活発に持続し,思考吹入や思考伝播は続いていました。精神運動興奮のみはおさまっていました。そして何より,考え判断する主体が彼女には戻っていませんでした。
 何より考える必要があるのは,精神病とはその人のこころという主体の位置が危ういことにその障害の本質があることです。例をあげれば,ある女性は,幻覚対象の発言(すなわち,幻聴)の言うままに行動し,夜中に家を飛び出しました。あるいは,着ている服を突然脱ぎました。もちろん,この事態もかなりは抗精神病薬で解消できます。しかし,それは主体の位置が真に取り戻されたということではありません。それは病者が「私は病気ではない」と言って薬をやめてしまい,幻覚が再発することで顕わになります。このような病者がその人自身であることの危うさにみずから真摯に取り組もうとするとき,そしてその人が自分自身を理解することを真摯に援助しようと治療者がするとき,そこに精神分析が役割を荷うのです。
 経済性や時間的効率,大集団への等配分という全体性や公平性を考慮する立場の人たちからは精神分析は強く否定されました。しかし私たち個々人においては,私たち自身が存在していることが地球や宇宙が存在していることです。その私たち自身がどうなのかは,あらゆることに優先して取り組まれてよい課題でその人自身にはあってよいはずです。私は精神病者への精神分析や精神分析的心理療法はそうしたものであると考えています。この精神分析というアプローチが広く普及する必要はありません。しかし必要な人には供給されてよいはずです。
 本書を手にした方の中にも,私のこうした見解に異論を抱く方も多いでしょう。それは抱き続けられながら,本書の第2部「治療の実際」を読んでいただきたいのです。その上で結論を下していただければ,私はその結論が否定的なものでも尊重したいと思っています。
 もうひとつ,私が述べておきたいことがあります。それは,精神病の人たちとのこころの深い交流はこころの臨床家にとってその専門的力量をあらゆる面で高めてくれることです。いや,むしろこころに深みをもたらしてくれるという方が適切でしょう。そのためには,大変困難なことではありますが,精神病の人たちのこころにほんとうに触れ続けていなければなりません。症状のみに目を向けたり生活のハウトゥを教えることではありません。
 精神病というこころに触れ続けることは,より健康なこころと向き合っていることとはまったく違っています。私たち自身の主体,つまりこころの中核が揺さぶられます。その経験は,こころを理解することの質を変えます。こうした稀な機会が精神病の人たちとの精神分析的交流で得られるのです。
 ここで注意を喚起しておく必要があるのですが,このことは重大な心的危機に陥る危険が病者にも治療者にもあるとのことです。ですから,精神病への精神分析的アプローチはあくまで慎重な準備のもとに取り組まれねばなりません。治療環境の準備,すなわち病者や治療者への緊急時を含めた支持態勢の準備であり,病者の動機や心的機能についての十分なアセスメントであり,同時に,治療者自身のこころについてのアセスメントです。
 椅子や机を自分で板を切り釘を打つことで作り上げることは,まったくの時代遅れでありましょう。けれども,出来上がりが不恰好であっても,そこに唯一のものがあり,こころになごみや達成感が生まれます。精神分析的心理療法も同じではないでしょうか。それにかかわるふたりにとって。

 本書の大部分の執筆者は,日々の臨床の中で統合失調症をはじめとする精神病を病む人たちに出会い,精神分析的心理療法を通して触れ合ってきている臨床家たちです。精神病の人に出会ったことがないという“臨床家”は存在しないはずです。あらゆる職種の援助職の皆さんが,日々出会う精神病の方たちのより深い理解のために一読されんことを願います。