はじめに

 筆者が本格的に心理臨床の世界に入ったのは1980年代当初である。その当時,従来のどの心理療法のモデルにも今ひとつコミットできない状態にあった筆者にとって,時期を同じくして日本に紹介されはじめた家族療法との出会いは,その後の筆者の心理臨床家としてのスタンスを決定づけることになった。その最大の要因は,臨床対象としての“家族”そのものよりもむしろそれを支えるシステム思考であり,とりわけ,ベイトソンの「はじめに関係ありき」というテーゼには大いに魅了された。それゆえに,筆者は文字通りの家族療法を実践はしながらも,すでにどこかで“家族”をはみ出していたように思う。そのために,自らを“家族療法家”と称することはもちろん周囲からそのように呼ばれることにも釈然としないものがあった。だからというわけではないが,その後,家族療法とは親戚筋にあたるブリーフセラピーの世界に接近することになるのだが,ここでもまた同様であった。ただ,家族療法,ブリーフセラピーを通じて筆者にとっておのずと大きなテーマとなってきたのは治療言語に関する問題であり,そのことが今日の治療言語な発想へと連なっているように思う。
 本書は,こうした筆者の心理臨床家としての今日までの歩みを示したものに他ならない。しかし,実をいうと,自分が“心理臨床家”であること自体については未だにアイデンティティーを持てないでいる(とはいえ,今でも,クライエントの方々とお会いしている時が,大いに苦労しながらも一番充実していることには間違いがないのだが)。この奇妙な筆者のスタンスは,かつて家族療法を実践しながらもすでにどこかで“家族”をはみ出していたように,心理療法の「内部」に自らを閉じ込めてしまうことによってかえって心理療法のありようが見えなくなってしまうのではないかという懸念の表れである。心理療法の「内部」にありながら同時にその「外部」に立つこと,一見すると矛盾するようなこうしたスタンスこそが,実は,今日の大いなる「こころ」の隆盛の時代の中にあってなお心理療法の可能性を問うには是非とも必要なのではないかと,言い訳ではなく,確信している。あらためて,心理療法も所詮は歴史における一つの産物であり,かつ,ベイトソンにならえば大いなるシステムの一部に過ぎないという認識を確認しておきたい。このことを,本書に収められた各拙論を通じてわずかでも読者の方々にご理解いただけるならば幸いである。以下,各論文について若干の案内をしておこうと思う。
 序章は,本書のために唯一書き下ろしたものであるが,ここでは,最近になって筆者なりに考えているフロイトの「無意識」がもたらしたと考えられる「こころ」の諸相についてエッセイ風に述べでみたものである。
 第1部に掲載された三本の論文は一九八〇年代後半から一九九〇年代のはじめにかけて書かれたものであるが,いずれも,筆者の基本的な臨床的スタンスを示したもので,かつ,その背景にはベイトソンからの影響が色濃く出ていると思う。その中でも,とくに第2章は,筆者がまだ半信半疑状態で自らの外在化を発表したものであるが,同時期にマイケル・ホワイトも同様の発想を発表していたことに大いに力づけられたという点で忘れられない。
 第2部のうち第4,5章は,一九九〇年代のなかば筆者が心身医学の領域で仕事をする中で,システム的な観点から医学モデルと心理療法モデルとの間の連携を構想したものである。内容的にはかなり重なる部分があるが,その内実を理解していただくためにあえて二本とも掲載した。第6章は,日本ブリーフサイコセラピー学会を通じて,ブリーフセラピーが日本に紹介されてきた経緯を知ることができるであろう。第7章は,日本における心理療法の発展において必ずといってよいほど論じられる東西文化間の相違について筆者なりに考えるきっかけを与えてくれたものである。
 第3部はいずれも事例研究である。第8章は,筆者にとってもっとも忘れることのできない家族療法におけるイニシャルケースの一つともいえるものであり,今でも読み返すたびにそれぞれの場面での筆者の混乱ぶりが目に浮かぶ。第9章は,大学病院心療内科の外来で出会った宗教的なテーマと抑うつを伴う解離性障害を示した女性のケースであるが,やや大袈裟ながら,彼女を包む時空を交差する世界全体に大いにひかれたものである。第10章は,現在の大学に赴任してまもなく,当時助手をしていた若き心理臨床家である瀬頭りつ子氏と共に,ホワイトの外在化モデルをもとに取り組んだケースである。論文はそのほとんどが彼女の手によるものであるが,彼女なりの外在化モデルの理解の仕方とそれに加えて初めての治療チームによる経験から得られたものがそこに示されており,筆者にとっても大変勉強になったものである。
 終章は,かなり早い時期に,別役実の演劇世界に大いに触発されて思いのまま書き綴ったものである。それだけに内容もかなり拡散してしまっており,最後まで本書に掲載すべきかどうか迷った。しかし,筆者なりのとくに「ことば」の問題についての関心を喚起した点で,あえてそのまま掲載することにした。
 なお,いずれの論文も内容を損なわない程度に初出原稿に加筆,訂正を加えている。