知性と感性の統合,そして生活の場へ

村瀬嘉代子
(北翔大学大学院教授)

 20年近く前のことであろうか,確か北海道児童青年精神医学研究会というような名称の会にお招きをうけた。その時長い髪を後ろに束ねて,机を黙々と並べ替えたりなど,裏方のお仕事をされていたのが田中康雄先生であった。物静かだが,目前の事象をしっかり見つめ,考え抜かれる方という印象を受けた。何か模索中という表情をなさっていた。とくにお話しするということなく帰京すると,まもなく論文の抜き刷りが送られてきた。「物心ついてから,他者とこころを通わせることに絶望し,ひきこもりを続けている女子中学生が田中先生と,物語の続きを交互に作るというフィナーレ創作法を介して,再び人と繋がりをもつことに意味と希望をもつようになった……」という事例である。「事実をして語らしめる」という文で治療経過が記され,緻密で周到な考察がなされていた。一人空想の世界に浸りきっている,容易に交流が持ちがたいと見える少女の内面世界を控えめに想像し,そっとノックし続けようとする,そういう姿勢から治療は始められていた。周囲の主たる治療論の流れに自分の方向をただ委ねるのでなく,自分自身の感性を働かせて患児と内面を分かちあおうとする姿勢と,緻密な思考が展開されている,というバランスがその論文の特色であった。
 当時,田中先生がお勤めでいらっしゃった環境では――医学は科学であるはずのもので,エビデンスを重んじることは基盤ということからすれば当然かもしれないが――当事者である患児は自分や世界をどう体験し,自分のことをどう受けとめているか,という視点には積極的関心はあまり払われていなかった,といえよう。患者について三人称で記述する,対象化して明示,定量化になじみやすい根拠から因果関係を明らかにし,見立てをし,治療,療育を進めることがルティーンとされていた。したがって,田中先生のアプローチは印象的だったのである。

 さて,本書のゲラ刷りを拝読して,対象は発達障害児ということで,先に言及した論文とはいささか異なっているが,どの章にも20年前の論文に顕れていた田中先生の基本姿勢が一貫して基底をなしていることに感じ入った。自分で適切に表現する手段を会得していなくても,いや会得していないからこそ一層といっても過言でないくらい,発達障害児は自分のうちにわき起こる感覚,情動,言語化しえない思いをいっぱい抱いていることを,臨床経験を通して私は看取してきた。内的に生じるものをうまく伝えられない,周囲とうまく繋がりあえない,これは日々を生きていく上で,どれほど不具合で辛いことであろうか。構造や機能のあり方を捉えることと同時に発達障害児自身の体験世界を彼/彼女らに身を添わせて,想像し理解する人の存在が,彼/彼女らの生きづらさを和らげるためには必須要因である。
 さらに,発達障害を抱える人に対しては,その個人の発達状態,その時その場に相応した,しかも自尊心を大切にした個別化した多面的な援助を長期にわたって必要とする場合が少なくない。したがって,狭義の医学モデルのみならず,チームワークや連携が自ずと必要になってくる。実はこれらについても田中先生は早くから身を挺して,実践されてきている。
 本書は,目の前の発達障害児一人ひとりが自分や世界をどう体験しているか,限りなく彼/彼女に身を添わせて理解しようとする姿勢を基盤にして,生物学的・医学的知見,発達的視点,さらに人の生活のあり方は社会や時代の特質によって,大きく規定されざるをえないという眼差しとが統合された,実践と思索の現時点での結実である。先生の「発達障害を抱える人々への援助」についてのマイルストーンであるともいえよう。

 本書に述べられているような発達障害を抱える人々への理解と関わり方が世の中に広まることを私は切実に願う。この書の出版を本当にありがたく思う。