2008年版のあとがき

 この『死刑囚と無期囚の心理』は,1974年11月30日に私の本名小木貞孝(こぎ・さだたか)著として金剛出版より刊行された。当時,私は上智大学心理学教室で犯罪心理学と精神医学の講座を担当していた。すでに加賀乙彦のペンネームで小説を書きはじめて何冊かの文学の著書もあったが,小説家としてはほんの駈出しであって,小木貞孝という犯罪学者のほうが世に知られていたので,この本も専門家の書いた専門書として読まれていたようだ。
 1979年2月に私は,死刑囚の群像を描いた『宣告』という長編小説を新潮社より上梓した。3月,上智大学を退職して,筆一本で立つ決心をした。
 1980年1月に,『死刑囚と無期囚の心理』を,一般向けにやさしく解説するつもりで書いた『死刑囚の記録』を中公新書より出した。『宣告』が完全にフィクションの小説であるとすれば,中公新書のほうは,小説のモデルになった死刑囚たちを,事実そのままに描いたノンフィクションであった。そこには死刑囚の獄中での生活を赤裸々に報告してあり,死刑の問題を考える資料として一般に役立つようにと気を使ってある。しかし,この元になったのは最初に出版した『死刑囚と無期囚の心理』であり,そこには正確に,しかも学問的に死刑囚の実態が示されている。
 裁判員制度の導入によって,私たち国民は死刑に相当するような被告人をも裁かねばならなくなりつつある。私たちは死刑囚の実態や心理をもっと正確に知ったうえで,裁判に臨むべき時代にさしかかっている。
 今度旧版の『死刑囚と無期囚の心理』を再販するにあたって,もう今は使われなくなった私の本名を捨てて,あえてペンネームの加賀乙彦著で出すことにした。読者の御寛恕を乞う次第である。
 なお,『宣告』の主人公のモデルは,1953年7月27日に東京新橋で起こった「メッカ殺人事件」の主犯,慶応義塾大学卒の正田昭で,その大要は『死刑囚の記録』に記述してある。なお私と彼とが取り交わした手紙は,1990年3月『ある死刑囚との対話』として弘文堂より出版された。また正田昭と深い魂の手紙を交わした女性への正田の手紙は1992年3月に『死の淵の愛と光』として弘文堂より刊行されている。

2008年9月 加賀乙彦