訳者あとがき

 今回の翻訳は,いつもと多少勝手が違った。これまでにも数冊,邦訳をさせていただいているが,いつもは心理療法などに関する専門書籍の翻訳であった。今回は心理検査とそのマニュアルの翻訳という,私にとっては未知の領域の仕事である。私が基礎とする領域は一応臨床心理学である(「一応」としたのは,私の日頃の実践が,臨床心理と言われる領域の範囲に納まるものなのかという疑問が払拭できないためである)。そういう私にとって,尺度構成といったおそらくは臨床基礎の領分に属するような作業はおよそ担えるはずもないものであった。であるにもかかわらず,どうしてこの仕事に取り組んだかというと,この種の心理評価のツールがどうしても必要だと感じ,かつ,臨床基礎領域の心理学者たちは,トラウマ体験の心理的影響の評価といったテーマにはまったく関心を払っていただけなかったためである(少なくとも,私がこのTSCCの仕事に着手した当時はそうであった)。
 私がTSCCの存在を知ったのは,確か1997年あたりであったと思う。阪神淡路大震災の2年後のことである。当時,私は,虐待を受けて児童養護施設等で生活している子どもたちの心理的な支援に取り組んでいたが,子どもたちの呈する問題の深刻さに比して,施設のケアワーカーの配置基準を始めとした社会的養護の制度的な貧困さを本当に痛感していた。この貧困な福祉制度を少しでも改善するためには,家庭内で虐待を受けた子どもたちがいかに深刻な問題を抱えているかをいくら声高に叫んでも無力であり(本当に無力であった),子どもたちの問題の大きさを『数値』で表わす必要がある(特に行政を納得させるためには数字が重要であることを,私は大阪府の公務員時代に学んでいた。ちなみに,公務員生活で私が学んだのはこのことのみである)と感じていた。今日では,社会科学や人文科学の領域においても『エビデンス』という言葉がしきりに使われるようになったが,当時はそんな気の利いた言葉を耳にすることはなかった。臨床心理や精神医学の領域で,手っ取り早く『数字』を弾き出すには,信頼性と妥当性を備えた心理検査を利用することだ。こう考えた私はその種の心理検査を探した(心理検査にこれほど関心を寄せたのは,心理臨床屋としての入門期にロールシャッハのエクスナー法に関心をもって以来のことであった)。しかし,残念ながら,原著および翻訳を含めて,虐待などトラウマ性体験の子どもへの影響を評価するための心理検査の類は,当時のわが国には存在しなかった。仕方なく,つたない語学力に鞭打って英語圏の文献を漁っていると,子どものトラウマを扱った心理臨床や精神医学の論文等に,今回訳出する羽目になったTSCCが多く使用されていることに気づいた。そして,その著者の名前を見ると,なんと,私が子どもの虐待の心理的側面に関して多くを学ばせてもらった書籍“Child Abuse Trauma”の著者であるジョン・ブリアだったのだ。虐待という慢性的なトラウマ体験の子どもへの心理的影響を主たる研究・臨床領域としているブリアの開発した尺度であれば,私のニーズには最適なものかもしれない。そう思った私は,早速,TSCCを取り寄せた。
 TSCCを実際に見,また,TSCCに関する研究論文を熟読した結果,TSCCがわが国でも利用可能なのではないかという私の思いは強まった。そこで,発行元であるPAR社に,TSCCの日本語訳とその使用に関する許可(しかも無料で)を求める手紙を書いた。当時は知らなかったのだが,PAR社は心理検査用具等の出版元としては合衆国で最大手に属する企業である。今思えば何と大胆な行為であったか。この私の大胆な要請に対して,PAR社は,魔が指したとしか思えないのだが,何と快諾してくれたのだ(バックトランスレーションの確認などの手続き上の条件や,日本で得られたデータの提供など,それなりに大変な作業を求めてきはしたが)。PAR社の寛大さによって,研究計画を同社に提出した上で,私が作成した日本語版TSCCを無料で(貧乏臨床屋である私にとっては,この点が非常に有難かった)使用できるようになったのである。その後,主として児童養護施設で生活している子どもを対象に,虐待という慢性的なトラウマ性の体験が子どもに与える心理的,精神的影響を評価するための調査を何度か実施し,それを報告書や論文の形で報告した。この時点で,私としては,虐待が及ぼす心理的影響の深刻さを,数字というある程度の客観性を備えたデータとして提示するという,当初の目的は達成できたわけである。後は,日本で得られたデータを英文の報告書にして,多大なる感謝の言葉とともにPAR社に提出すれば仕事は完了,のはずであった。
 しかし,事態はそううまくはいかなかった。私の書いた論文や報告書を,他の研究者や臨床家が読むという,想定外の出来事が起こったのだ(しかも悪いことに,本来の対象であった行政関係者にはあまり読まれなかった)。そうした方々から,自らの調査研究でTSCCを使用したいとの申し入れが舞い込むようになった。そのたびに私は,依頼者に対して私に与えられた調査版権の趣旨を説明し,どうしてもという場合には形式上私をその研究の共同研究者に加えてもらった上で,PAR社に新たに研究計画を提出するという方法で急場を凌いだ。しかし,数が多くなるにつれ,この作業が結構負担になってきた。「いっそのこと,TSCCの日本版を正式に出版したほうがいいんじゃない?」という悪魔の囁きが聞こえるようになった。かくして,一つの負担を解決するために別の負担を背負い込む羽目となったのだ(こういった場合,2番目の負担のほうが当初のそれより大きいのが常である)。
 TSCC日本版の作成にはさまざまな困難が伴った。第一には,一般群の子どもたちのデータの収集作業である。原版TSCCは,一般の子どもたちのデータに基づいてT値を算出しているため,日本でも同様の手続きをとる必要がある。一般の子どものデータをとる常套手段は学校に調査協力をお願いすることである。しかし,近年,個人情報保護などの絡みでこの種の協力を学校から得にくくなってきている。それに加えて,TSCCには,「自殺したい」など,教師や保護者が一見のもと眉を限界点まで顰めるような項目が少なくない。難航は当初から予想され,予想通り難航した。結果的には約2,000の子どもたちのデータを得ることができたが,これは,学生時代の悪行をネタに半ば脅される形で調査に協力した現在中学校で教師をしている私の大学時代の同窓生や,私が調査対象を探している時期に運悪く私に研修講師を依頼してきたために取引でやむなく調査協力をせざるを得なくなった某市教育委員会の研修担当者など,多くの方々の善意に満ちた協力の賜物である。この場を借りて心からお礼申し上げる。
 これら熱意に満ちた調査協力者であっても,TSCC完全版に含まれる性的関心尺度の項目にはさすがにいい顔はしなかった(事実,「私はいつもセックスのことを考える」という項目を見て卒倒しそうになった小学3年生の担任がいた)。そのため,日本版の作成に当たっては,TSCC完全版はあきらめTSCC-Aを用いることにした。性的関心尺度の標準データの収集は今後の課題であるが,いまのところ,収集できる目処はたっていない。どなたか,調査に協力しようという奇特な方がいらっしゃったら,一報願いたい。
 上記の経過で一般の子どものデータを何とか収集できた。臨床群,つまり虐待などのトラウマ性の体験をした子どもたちのデータはこれまでのいくつかの調査で蓄積されている。さあ,これで準備完了だ。後は日本の出版社にPAR社から翻訳出版権を取得してもらうだけ,のはずだった。しかし,思わぬところに伏兵が潜んでいた。ある日,版権の取得をお願いした金剛出版の担当編集者から連絡があった。「あの〜,PAR社から連絡があって,『日本での出版には関心がないので悪しからず』という返事なんですけど,どうしましょう?」と言うのだ。おそらくPAR社のような大手出版社にとっては,日本でのTSCCの出版などは労多くして実り少なしといったところなのだろう。企業的には当然の判断なのだろうが,こっちはたまったものではない。それまでの私の努力はすべて水泡に帰すことになる。それ以上に,私の脅迫によって不本意ながら調査に協力した先生方の気持ちを何とかなだめてきた「先生方やクラスの子どもの協力があってこそ,虐待を受けた子どもたちを適切に支援するための心理検査が出版されるのです」という言葉が現実のものにならなかったときの彼らの怒りの大きさを考えたとき,編集担当者に対して「そうなんだ,じゃあ仕方がないですね」とは口が裂けても言えなかった。
 TSCCの訳出をどうしても諦めるわけにいかなかった私は,かねてからの友人であり,トラウマ関連障害の研究や臨床にかけては国際的なオピニオン・リーダーである精神科医べセル・ヴァン・デア・コルクにメールを書いた。ベセルとは,彼が阪神淡路大震災の後にトラウマに関する専門家向けの研修会を行うために来日したとき以来の付き合いである。彼ならTSCCの著者であるジョン・ブリアともつながっている。彼なら何とかしてくれるかもしれない。私は,ベセルへのメールに一縷の望みを託した。待つこと数日,ジョンからレスがあった。曰く,「なるほど,西澤さんの窮状はわかりました。ただ,TSCCの版権はPAR社が持っており,私のような一介の精神測定学者が働きかけたところでPARのような大企業が方針を変えるとはとても考えにくいですが,できるだけのことはやってみます」とのことであった。このメールを見た私は,ベセルやジョンの厚情に感謝しつつ,日本版TSCCの出版を断念する方向に気持ちを切り替えた。
 しかし,である。思ってもみない連絡がPAR社からあったのだ。「先日はTSCCの日本版の出版に当社としては関心がないとの返事をしましたが,これは当社の事務員のちょっとした手違いでした。当社としましては,日本版TSCCの出版に積極的に取り組むつもりです。つきましては……」。要するに掌が返ったのだ。一介の精神測定学者の力を思い知らされた。
 かくして,本マニュアルの出版に漕ぎつけることができた。この作業は,本当に多くの方々の協力と,幾許かの運がなければなしえなかっただろう。冗談めかして書いてきたが,TSCCの項目に苦慮しながらも調査にご協力いただいた学校関係者の方々や,PAR社の了解をこぎつけるのに一役も二役も買ってくれたべセル・ヴァン・デア・コルク博士ならびにジョン・ブリア博士,私の統計学の知識の欠落を補ってくれた学生および大学院生諸氏,そして,不快感をもたらすかもしれないTSCCの各項目に一生懸命答えてくれた子どもたちに,心より感謝申し上げたい。また,いつもの事ながら夜陰に乗じて逃げ出そうとする私をどこまでも追跡してくれた金剛出版の田中春夫氏,ならびに石井みゆき氏(石井氏は,現在他の出版社に移っておられるが,TSCCの翻訳作業の最初の段階ではかなりの苦労をしていただいた)には感謝の言葉すら見当たらない。
 今回はまず,日本語版TSCCとそのマニュアルの出版となったわけだが,続けて,日本版マニュアル(「日本語版」と「日本版」という,紛らわしい名称で恐縮である)の出版が予定されている。この日本版では,先述した,わが国の標準データ(約2,000人の一般の子どもたちのデータ)の統計学的な特徴やその分析の経過を示す予定である。また,このマニュアルには,これまで私たちが行ってきた,虐待を受けた子どもを対象としたTSCCを用いた調査研究の主だったものをあわせて掲載するつもりである。つまり,TSCCの開発経過や妥当性の検討などの基礎情報は今回出版となった本マニュアルを,そして,わが国の子どものTSCCの結果の解釈や臨床研究等への適用に関しては近刊予定である日本版のマニュアルを参照いただく形となっている。
 今後,TSCCがわが国で有効に活用され,虐待などのトラウマ性の出来事を体験した子どもたちへの心理治療や心理的ケアが適切に行われるようになることで,先に述べた多くの方々のご協力の労が少しでも報われることになる,と信じたい。

2008年9月 訳者