日本語版への序

語ることは人間の本性の重要な一部である。
それは呼吸や血液の循環と同様である。

A. S. Byatt 2000.

 Narrative Research in Health and Illnessの日本語版が出版されたことは,私たちにとって大きな喜びである。同時に斎藤清二教授をはじめとする翻訳者の労に感謝したい。

 本書の初版の序文において私たちは,西洋の知識伝統における物語研究は,人文科学,社会科学,人間科学を網羅する,高度に多様な領域から生じていることを指摘した。物語的思考と想像のプロセスは,時間的,因果的参照枠として具体化されるものであるから,物語の構築と脱構築は,あらゆる形式の研究,省察,表現において中核的な役割を果たす。

 私たちが2004年に本書の序文を書いた時,この領域で活動する研究者たちはすでに国際的なネットワークを作り上げていたが,“物語”と“医療”はいまだ対比的に理解されており,その両者を結びつけることが強調されていた。しかしその後,この領域は大きく拡大し,さらに確立されたものになった。学術的な文献や書籍が続々と出版されているが,そのなかでは,“物語”と“医療”はもはや並置される言葉としては扱われていない。その代わりに,“物語”と“医療”は,ヘルスケアの実践に浸透する,推測可能であると同時に高度に生産的な研究法として,単に表現的に用いられるだけではなく,分析的に関係づけられるようになった。卒業後研修のための,いくつかの修士課程教育プログラムが開発され,今や多くのカンファレンスが頻回に開催されている。それらは,研究者や医師がこの領域をさらに深く探求することを推進している。日本人の研究者や医療者も,この相互交流的な企画の主要な貢献者の役割を担ってきた。

 2000年に,有力なEBMの研究者と臨床医からなるグループは,「エビデンスに基づく実践のツールを知ることは医療にとって必要であるが,患者への最良のケアを提供するためにはそれだけでは十分ではない」ということを認めた。臨床能力に加えて,共感性,鋭敏な傾聴技能,人文科学の多様な視点を備えることが,臨床医には要求されるというのである1。6年前に本書の内容が完成した時点で私たちは,臨床的,科学的な知識と,日常の健康問題において遭遇する,間主観的で物語化された多義性に対する洗練された理解を結合することができれば,ヘルスケアにおいて“共感性,鋭敏な傾聴技能,人文科学の多様な視点”を実践することができると確信した。

 ヘルスケアにおける研究の基本的な関心事は,物語,語りの行為,実演,そして解釈である。本書はそれらを認識するための方向性,価値,そして技術の融合物を提供することによって,医療実践者が研究を行うための拠り所を創り出すことに貢献してきた。生物学的メカニズムを探求することは,もちろん病気に対する伝統的なアプローチの中核である。しかし本書は,単なる生物学的アプローチを超えて,医療をより明瞭にするものとしての言語と表現に焦点をあてるような,思考領域と認識論へ読者を向かわせるものである。それゆえに私たちは,本書における研究成果が刊行されることによって,日本における研究者や医療者のコミュニティでの物語研究と比較が可能になることを,とても喜ばしく思っている。

2009年5月20日    Brian Hurwitz
Trisha Greenhalgh
Vieda Skultans