はじめに

 私は家庭裁判所,聖路加国際病院,NTT東京中央健康管理センタ神経科などと,ずっと精神科外来で,診療ならびに家庭と職場の人間関係調整の仕事をしてきた。患者からあるいは患者と共にそこでしか学びえなかったことを,精神科医や心理関係の専門家ばかりでなく,広く一般の人にも伝えることを望んで,専門家しか読むことのない専門誌に発表した共通するテーマを扱った論文と講演を,教科書的説明を加えてまとめたものが本書である。
 この本の一番の元となった論文は,聖路加時代の1977年にPsychiatry誌に載せたAnthropo-phobia and Japanese Performanceで,これは米国の小中学の教員資格を持つ高野弥栄子の英語力に頼って書いたものである。その対人恐怖症について述べたものに,土居健郎先生の「甘え理論」についての考察を加えた論文が,「演技と精神病理」で,これが本書の第一章を,その不潔恐怖症と対人恐怖症との対照を論じた点を発展させたものが,「他人密入症状(仮称)の臨床的精神病理学的研究」で,これが第二章を形成している。第三章は,自治医科大学,東大分院,日本精神病理学会,若干の研究会などで話した,第一章と第二章に通底する一つの仮説に基づく精神医学的観点からの男性論女性論である。第三章は私の専門外のことを扱っていて,おそらく一番異論の多い章であろう。しかし,ここで述べている仮説が成立しないと,前の章に述べている現象をうまく説明できないように私には思われる。
 1971年に土居健郎先生が東大教授になられた頃,私は週に何度か同じ外来で診療されていた精神医学界の三巨人,土居健郎先生,安永浩先生,飯田真先生から直接の臨床指導を受け,その精神病理学の影響を強く与えられながら仕事をしていた。それに加えて,土居先生のご自宅における症例研究会に参加していた同級の精神科医,石川義博,内沼幸雄,高橋哲郎,吉松和哉の諸君との親しい交流からも,大いに刺激を受け啓発されていた。……(中略)
 本書で紹介している症例は,内容理解には欠かせないものである。一番最近のものでも十数年,多くは30年以上前のものであるため,記述について患者の承諾を得ていない。それもあって,いくつか差障りのありそうな点を変更ないし省略しているが,本質的なところは変えず,できるだけ語られているところはそのまま残すよう努めた。症例において述べられていることと,それを生む背後の心理は,患者固有のものではなく,同じような症状を持つ人に共通し,多くの一般人にも共有されているものなのである。