監訳者あとがき

 この本に出会ったのは,たしか2004年の米国家族療法アカデミーの年次大会の書籍展示コーナーだったと思う。割に薄手のペーパーバックなので,帰りの飛行機の中で眠くなるまでの時間に読もうと思ったのが間違いのもとだった。半分近くまで読みふけり,そのまま成田に到着。時差ボケがひどくなり地面がグラグラしたのを覚えている。
 著者のひとりジョン・カールソン(Jon Carlson)は,有名な“Psychotherapy with the Experts”のビデオシリーズでなじみになっていた人物である。マスター・セラピストたちの実演の前後の,彼のインタビューの巧みさにはいつも感心させられていた。そうした彼らのインタビューアーとしての技量が存分に発揮され,マスター・セラピストたちの「素顔」が浮き彫りになっている本となっている。
 ここに登場するマスター・セラピストたちの多くは日本の臨床家もご存じのセラピストたちだろうと想像する。わたくしの場合にも,直に知っているセラピストがかなり含まれている。それゆえ,文字になっているとはいえ,彼らから「猿も木から落ちる」話を聞けるのは,「秘密の玉手箱」を開けるようなわくわく感,はたまた私の「覗き見欲求」を満たしてくれるのではという期待感をいだいて読み始めたのを覚えている。一方で,もともと他人の失敗を陰で悦ぶような悪い性格の持ち主である私は,ここにでてくるセラピストたちなら,「なんとか,かんとか」言い逃れをして,この私の悪い性格からくる悦びを満たしてくれはしないだろうとのマイナスの予想もあった。
 ところがである。読み進むほどに「身につまされる」ことしきりの連続で,最後には私も柄にもなく「自分に正直になろう」という気持ちを胸に成田から自宅に向かった。
……(中略)
 さて,この本がどなたの役に立つのかも考えながら翻訳の作業をし続けた。清水さんも,「あとがき」に書いているように心動かされたようだが,はたして心理療法の初心者たちならどう読むかも気になった。さきほど「猿も木から落ちる」と書いたが,「猿」になる前の人たちは木にさえ登れず,「木登り法」の本を片手に地面から木を見上げるだけである。だから落下して痛い思いも経験していない。こうした「猿」になる前の人たち,つまり木登り(臨床)経験の乏しいビギナーには,たぶん「ピンとこない」本だろう。あけすけにいうなら,こうしたビギナーの役に立つだろうと思って,これら生粋の「マスター木登り猿たち」が語っているとは思えない。ビギナーには頷けない箇所がたくさんあるはずである。たとえば,一見治療構造や治療契約を度外視したようにみえる柔軟で果敢な介入など。
 では,なぜ訳したか。おこがましいが,多くの「猿」諸氏,つまり多くの木登り(臨床)経験と同時に落下(失敗)経験を積んだセラピストやスーパーバイザーには,本書が,私が出会った時のように「身につまされる」本であって欲しいと思うからである。こうしたマスター・セラピストたちの体験談から,彼らが自分たちの理論を越えて「心理療法とは何か」という本質的な問いに専門家として,さらには「猿になる前の」人として真摯に取り組んでいる本であると感じたので,日本語にしてわが国の治療者の皆様にも気軽に(?)読める機会が増えたほうがよいと思い,清水さんにお願いして訳出したしだいである。
 最後に読む上での注意事項。面白いからといって,一気に読まないことをお勧めします。結構滅入ってしまいますので。それとさっきも言いましたが,私の経験では眠くなる本ではないので,就寝前1章という習慣には不向きです。それよりも仕事場への通勤時間に知ってるセラピストの章から拾い読みするなどというのがよいのではないかと思います。この「あとがき」を最初に読んでいただけることを期待して。

 中村伸一