序文

中井久夫

 生涯の仕事を辞めて後に,その領域の本を読むと,驚くほど,かつて仕事をしていた時代に読んだのとは全く別の感想を抱くものだ。
 どういう違いか。私がそこに戻ることはもうない。だから,元精神科医が皆そうなるというわけではないが,私は臨床の場を失ったときから,他人事として見る位置に移動した感じである。もちろん,体力,気力,知力を自己診断して決めたのであるが,状況が違ってしまえば,ものの見え方感じ方が変わっても不思議ではない。
 距離ができて,文章が取りつきにくくなる。同じ文章が固く感じる。何だか漢字が詰まっているように見える。そして,内容に焦点を当てて読むとともに,ここは建前的なことを書いているな,ここは少しきれいごとになっているな,と文体からの批評が前面に出てくる。私の中に潜んでいた意地悪爺さん性が出てくるといってもよかろう。
 ところが,村瀬さんのこの本は,私が現役の時に読んだのと,引退しているときとで,この変化が感じられない。むしろ,親しみやすくなったとさえ感じる。
 医師,とくに精神科医は,大げさにいえば,ダンテの『神曲』にある地獄の門を潜って別世界に入り,自分の一部を麻痺させて専門家になる。臨床心理学は精神医学よりもソフトなサイエンスであろうが,やはり,そういう関門を全く潜らないわけではなかろう。しかし,村瀬さんは,そうではなさそうである。家裁調査官というハードな門から入りながら,そうであるはずのない素人性がまわりの人,たとえば高校の先生にも感じさせる。
 私は若い頃,彼女の症例へのコメントに「敢えてする」(Wagnis)というドイツ語を使って,この方の大胆さを表現したことがある。思い返せば,この方には,歩んでゆけば,状況がそのように開いてゆくのだ。ほんとうは彼女の「練り絹のような初々しさ」が状況を開いているのだが,それはご本人も,周囲さえも意識できないものであろう。
 この本の女子患者が「シゾを通過した大学生」として憧れの眼差しでみるのも,「練り絹のような初々しさ」という矛盾形容性ゆえであろう。村瀬さんはしたたかなといってよい現実吟味力をも持つが,それに状況がおのずと開けるのを待つ強さとなって現れる。あの女子患者の表現を考えるときに,私には思い出す体験がある。インターンとして,大阪府立中宮病院の慢性病棟を最初に経験した直後,最寄りの駅から京阪電車に乗ったとき,座席に並ぶ普通の乗客たちの放心した顔の脂のようにぎらぎらした欲望が私のおもてを打って,いたたまれなくなったことを思い出す。そういうもののなさを,この女性は聡くも直観したのであろう。心配でたまらなくなって病院を訪ねる彼女の心やさしさが心を打つ。そのやさしさとゆとりをこの女性から引き出した村瀬さん,そして村瀬さんから引き出したこの女性の力に希望を持つ。

    ちょっと眼を閉じて。
    聞こえるね,台所で皿を洗うお母さん。
    聞こえるね,ナイフとフォークを引き出しにしまう音。
    聞こえるね,廊下を歩く母さんの衣ずれ,
    そしてイコン立ての中に漂う聖母の微笑。

    明日はもう治る。病人じゃなくなる。体温計を見よう。
    腋から抜いたばかりで温かい。
    天国のお父さんが幼い従妹にそっと言うだろう。
    明日行っておやり,って。
    従妹が来たら一緒に散歩するんだ,鹿と肩を並べて――。

    杏の実の新しいのを集めて従妹にやろう。
    青い鹿が来るよね,
    とうさん,ぼく,
    眠れそう,
    青い――
    青い鹿なの,とうさん,
    天国
    なの

    現代ギリシアの詩人ヤニス・リッツォス(1909‐1990)の詩集『括弧』(「自分を括弧に入れて」の意),
    中井訳,みすず書房,1991年,より。


 幼年時代の回復期をうたった詩は珍しく,すぐれた詩はさらに少ない。第二次大戦中の抵抗期あるいはその直後の内戦期であるが,天国の父は,「天にましますわれらの父よ」に始まる祈りのことばともひびきあうだろう。快癒のはじまる感覚が直接に伝わってきて,この本にふさわしいとおのずと心に浮かんだ。