訳者あとがき

本書について

 本書はエドウィン・シュナイドマン著『A Commonsense Book of Death : Reflections at Ninety of a Lifelong Thanatologist』(死に関するコモンセンスに基づく考察の書――生涯にわたる死生学者の九〇歳時の回想)(Bowman & Littlefield, 2008)の全訳である。
 シュナイドマン先生に出会えたことは,私の人生の中で最高の幸運と考えている。この出会いがなければ,私の人生はまったく変わったものになっていただろう。シュナイドマン先生が自殺予防学を確立した心理学者として世界的に著名であることに異論を挟む者はいないだろう。心理学的剖検,遺書の研究,高知能者の生涯,ポストベンション,MAPS人格投影法など,シュナイドマン先生の業績は枚挙に暇がない。また,ハーマン・メルヴィルの研究家としても広く知られている。
 まず,commonsenseの日本語訳について断っておきたい。日本語訳として,常識,良識があるが,本書ではそのようには用いられていない。アメリカ人ならば,この単語を耳にして,まずは一七七六年にトマス・ペインが著した小冊子を思い浮かべるだろう。これはイギリスからの独立を平易に訴えた文章であり,合衆国独立への世論を高めた文章として知られている。commonsenseが意味するのは,他者への配慮を前提とした公共の場所での秩序維持の感覚であり,モラルの土台となる感性といった意味合いも含められる。日本語で単純に「常識」とされるものよりもはるかに広い概念と考えるべきだろう。
 さて,シュナイドマン先生は造語の名人でもあるが,一般に使われている単語を独自の意味で用いることでも知られている。このcommonsenseという単語は,むしろ一般的な価値観や道徳観にとらわれず,冷静で科学的な態度で,死という複雑な現象に挑む必要があるという点を強調するために使われている。日本語で「常識」というと,ごく普通の大人が当たり前に備えていなければならない知識や振る舞い方という意味になるが,これではシュナイドマン先生が伝えようとする意味と,むしろ正反対になってしまう。したがって,commonsenseはむしろ日本語の「常識」とは対極にある覚めた判断力であり,その判断にはバランス感覚も求められる。そこで,本書では,commonsenseをあえてそのままコモンセンスとしてある。本書を通読すれば,シュナイドマン先生がどのような意味でこの言葉を表題に選び,本文中にもキーワードとして現れてくるか読者はよく理解できるはずである。
 なお,本書の冒頭で「私は90歳だが,現実的に考えると私に残された時間は2年もないだろう」と書いているように,シュナイドマン先生が自らの死を見つめながら,本書をまとめたものである。その一生を劇のようにとらえ,本書もまた戯曲のように,第○幕第○場といった形で進んでいく。本来ならば本であるのだから「第○章第○節」とすべきかもしれないが,著者の意図を汲んで,そのまま第○幕第○場と訳してある。本書は次のような構成になっている。

・第一幕――1973年にシュナイドマン先生が56歳のときに,死についてのさまざまな論考をまとめた『人間の死』から重要な点を抜粋している。この本は全米図書賞にノミネートされたものであり,シュナイドマン先生の死生学を理解するうえで価値の高い本である。
休憩――第一幕と第二幕の間に,休憩が入る。アメリカ心理学会の書評誌では,時折,「回顧的書評」という特集を組み,少なくとも25年以上前に出版された本を取り上げている。年月を経ても価値が認められた業績をあらためて書評するという企画である。これまでにもB・F・スキナー,ヘンリー・マレー,カール・メニンガーといった著名な精神科医や心理学者の著作が紹介されている。2005年には『人間の死』も回顧的書評で紹介され,シュナイドマン先生にとって非常に名誉なことであった。評者はAPAの元会長,カリフォルニア大学サンタクルズ名誉教授ブリュースター・スミス博士であった。
・第二幕――『人間の死』を執筆して三分の一世紀が経った2008年に,90歳のシュナイドマン先生が当時を振り返りながら,死に関する現時点の自らの考えをまとめている。第二幕はすべて「当時と現在」という対比から始まっているのもそれを反映している。自らに迫り来る死を目前にしながら,『人間の死』で展開した論考を再点検している。
・追加公演――これは本書の中でもっとも興味深い部分かもしれない。シュナイドマン先生は老年期に至って,再び精神療法を受けているのだが,担当のセラピストであるエセル・オダーバーグがシュナイドマン先生の人柄を描写している。なお,彼女が書く内容に影響を及ぼさないように,本書は当初,シュナイドマン先生の死後に発刊される予定になっていた。幸い,本書が完成した2008年にシュナイドマン先生は健在であったので,刊行されて,はじめてこの部分を読んだという。
・その後――引用文献,謝辞,索引などからなる。

 シュナイドマン先生の業績に関しては,ブリュースター・スミスによる『人間の死』の回顧的書評に詳しく述べられているので,ここで繰り返すまでもないだろう。さらに,シュナイドマン先生の精神療法を担当したエセル・オダーバーグが彼の人柄について,これまではあまり明かされることのなかった角度から描写していることも実に興味深い。
 死に関する論考について三分の一世紀という年月を挟んだうえでシュナイドマン先生が再考しているという点で十分に独特な本なのだが,さらに,ブリュースター・スミスの書評とエセル・オダーバーグのエッセイが本書をさらにユニークなものにしている。自殺予防というだけではなく,死(他者の死,自己の死)について広く考えるための素晴しい叩き台として,本書を薦めたい。

シュナイドマン先生との個人的な思い出

 私は大学を卒業し,精神科医としての研修を受けた後,新設の山梨医科大学(現・山梨大学医学部)精神医学教室で助手として働かないかと誘われた。できるだけ早い時期に留学したいという漠然とした希望があり,山梨に行くと,その夢が遠ざかってしまうのではないかと感じて,あまり気が進まなかったというのが正直な想いだった。
 さて,山梨では予想外のことが私を待ち受けていた。富士山の北麓に青木が原樹海(以下,樹海と略)という広大な原生林が広がっていて,自殺の名所として知られている。そこで自殺を図ったものの,記憶を失ってしまう人を治療する機会がめぐってきたのだ。(この経験については,「患者から学ぶ;心の旅路。精神療法,34巻5号,625-627,2008」に少し詳しく書いた。)これを契機として私は自殺予防により深く関心を抱くようになった。なお,この経験は私の医学博士号の論文として「全生活史健忘の臨床的研究。精神神経学雑誌,91巻,260-293,1989」としてまとめた。
 これは,私が群発自殺,解離と自殺の関係などについて関心を抱き,自殺予防に関わる大きな契機となった。そして,あれほど遠い夢のように思っていた留学も実現した。自殺予防のテーマでフルブライト研究員に応募したところ,UCLAでエドウィン・シュナイドマン先生から指導を受ける機会を得たのだ。
 私が留学したのは1987年から1988年にかけてであり,それはシュナイドマン先生がUCLAで定年を迎える年にあたっていた。私が35歳,シュナイドマン先生が70歳である。先生は私の父親とほぼ同年齢であり,アジアから来た最後の弟子に実に親身になって接してくださった。
 私の娘と息子は当時7歳と6歳だった。ロサンゼルスに着いて間もなく,シュナイドマン先生夫妻は自宅でパーティを開いて,私の一家を関係者に引き合わせてくださった。子どもたちのために小児科医まで紹介していただいた。ロサンゼルス市内のシュナイドマン先生の自宅はけっして大きくはない。よくここで4人の息子を育てたものだといつも思っていたが,その自宅の部屋や庭には鯨の画や彫刻で溢れていた。『白鯨』が好きだということで,友人たちが次々に鯨の絵や置物を贈ってくれるのだ。シュナイドマン先生から「さあ,この家に鯨が何頭いるか数えてごらん」と言われて,歓声を上げながら,家中を走り回っていた娘と息子の姿が,つい昨日のことのように思い浮んでくる。
 さて,シュナイドマン先生の授業や講演を聴講する以外にも,精神療法のセッションやロサンゼルス市内の病院でのコンサルテーションに常に同席を許された。議論好きの先生に何を質問しても,丁寧な答えが返ってきて,本を通じてしか知らなかったシュナイドマン先生から直接教えを受けることになった。
 さらに,毎週木曜日の午後に,自宅に来るように言われた。小さな庭にテーブルを出して,そこに本を広げる。奥様が軽食と紅茶を出してくださる。(なお,エセル・オダーバーグはエッセイに「シュナイドマン先生との水曜日」という題をつけているが,私は毎週木曜午後の先生の自宅の庭での個人講座を「シュナイドマン先生の木曜日」と名づけていた。)ヘンリー・A・マレーの人格論はしばしば取り上げられたテーマであった。一時期,シュナイドマン先生はマレーの招きでハーバード大学に所属していたことがある。自分がもっとも尊敬している人物としてマレーをしばしば話題にした。マレーの心理的欲求に関する理論だけでなく,マレーの開発したTAT,そして,マレー自身もハーマン・メルヴィルの小説に表現された人間の自己破壊行動に強く関心を抱いていたことなどを懐かしそうに,熱心に語る。
 もちろん,自身の業績についても熱く説明する。自殺の定義,自殺にまつわる真実と誤解,心理学的剖検,精神痛,遺書の分析,メルヴィルやパヴェーゼの病跡学,自殺の危険の高い人への精神療法,ポストベンション,自殺の理論とテーマは尽きない。本書でも取り上げられているが,当時,世界中で話題になっていたエリザベス・キューブラー・ロスの死にゆく患者の心理的五段階は辛辣に批判していた。人間は各個人が生きてきたのと同じように,死んでいくという明白な事実に目を向けずに,「怒り,否認,取引,抑うつ,受容」と誰もが同じように死への段階を進んでいくなどと考えられるというのかというのが先生の主張であった。アメリカ精神医学会が定めた診断基準(DSM)についても,人間の苦悩を単にラベリングするだけの愚かな行為だと批判していた。
 昔もそして今でもそうだが,シュナイドマン先生は語り始めると,聞き手の存在を忘れて,自己陶酔したかのように語り続ける癖がある。まるで詩を読み上げるかのように,自らの心に浮かぶことを話し続ける。自らも衒学的と表現するように,これまでに私が耳にしたこともないような単語が延々と続く。「聞き逃すといけないので」と言い訳して,シュナイドマン先生との対話を録音しておいた。今でも時々それを取り出して聴くのだが,南カリフォルニアの陽光が降り注ぐあの小さな庭が浮かんでくるようだ。今回,本書を読んでいると,シュナイドマン先生の肉声が私の耳元に響いてくる感じがしながら,翻訳を進めていった。
 私はこのような留学生活を送っていた。シュナイドマン先生には親身に世話をしていただき,またUCLAだけでなく,ロサンゼルス自殺予防センターの関係者にも温かく迎えられた。私は留学とはこういうものだと思いこんでいた。しかし,その後,同僚や若い人の話を聞いて,私ほど恵まれた環境で留学生活を送っていた者は実はきわめて少ないことがわかった。留学中のほとんどの時間を図書館での読書に費やしたり,同僚と話をするでもなく街を歩き回ったり,研究室で無言でラットを相手に実験して数年を過ごした人がいかに多いことか。それでも留学をしないよりはよほどよいとは思う。しかし,そういった人々に比べると,私は20世紀の自殺学の巨人にいつでも質問したり,議論することができるというきわめて恵まれた立場にあったのだ。
 私が唯一困ったのは,ファーストネームで呼びあうアメリカ人の習慣だった。初対面で「私をエドと呼んでほしい」と言われて面食らった。父親とほぼ同年齢の,著名な心理学者を,とてもではないが「エド」とは呼べなかった。「ドクター・シュナイドマン」「プロフェッサー・シュナイドマン」などとしか当時の私には呼びかけることができなかったのだ。これこそ文化差である。留学が終わりに近づいた頃,「とうとう私をエドと呼ばなかったね」と先生がウィンクをしながら指摘したのを思い出す。その後も時々ロサンゼルスを訪ねるのだが,さすがに今では私もそれほど抵抗なく「エド」と呼びかけられるようになった。
 シュナイドマン先生の本を早い時期から翻訳して,わが国に紹介していた人がいて,自動的に翻訳権がその方に行ってしまい,私にはなかなか先生の本を翻訳する機会が回ってこなかった。その方が高齢になったということで翻訳はやめたいということになったらしく,いよいよ私に出番が回ってきた。『シュナイドマンの自殺学』(Suicide as Psychache. 金剛出版,2005年),『アーサーはなぜ自殺したのか』(Autopsy of a Suicidal Mind. 誠信書房,2005年)と翻訳し,そして本書が私にとって三冊目のシュナイドマン先生の本の翻訳となった。自殺の危険の高い人のたった一例の事例から,その死に至る過程を浮き彫りにしたという意味で『アーサーはなぜ自殺したのか』はユニークな本であるので,心理学的剖検に関心のある方はぜひを読んでいただきたい。
 さて,いつもは翻訳に取りかかると強迫的なまでに集中し,短期間で仕上げるのが私の流儀であるのだが,今回だけはなかなか進まなかった。というよりは慌てて進めたくなかったのだ。たしかに内容が難解であるのだが,私には十分に理解できる。むしろ,あまり早く恩師との対話を終わらせたくないという思いが強かった。あるいはこれが先生の最後の本になるかもしれない,20年前に留学していた当時に先生が私に教えようとしていた内容はこういうことだったのかと,さまざまな思いが浮かび上がってきたものである。
 私は最近でも時々ロサンゼルスを訪れている。2001年に最愛の奥様を亡くした後も,シュナイドマン先生は家族の思い出の詰まった自宅で独り暮らしを続けている。先生には私と同世代の四人の息子がいて,三人が医師,一人が歯科医である。皆,父親思いの優しい人たちだ。彼らは皆カリフォルニア州以外に住んでいるが,毎日電話をして父親の様子をみたり,できる限りロサンゼルスにやってきたりしている。しかし,いかにもアメリカ人らしいと私が思ったのは,年老いた父親を心配して一緒に住もう,同居は気が進まないというのならばせめて近くに住んでほしいという息子達の希望があるにもかかわらず,先生はロサンゼルスでの独り暮らしを続けているのだ。
 今では自宅からほとんど出ない。家の中を歩くのも壁を伝ってようやく身体を動かす程度である。疲れると,ベッドに横たわる。首には,緊急時に救出を求めるためのボタンが下がっている。日中はヘルパーが来るので,最低限の身の回りの世話はしてもらえるのだが,夜間は自宅でたった独りになってしまう。拡大鏡でようやく短時間読書できる程度である。こういった身体の状態にもかかわらず,90歳にして本書をまとめあげたというエネルギーはどこから湧いてくるのだろうか。「最近,疲れやすい」などと言っている私は自分自身が恥ずかしくなってしまう。なお,本書の最初の部分に引用されている『人間の死』はシュナイドマン先生が55歳のときに書いたもので,なんと現在の私の年齢である。
 今でも,シュナイドマン先生を訪ねていくと,一日のほとんどの時間をすべて私のために費やしてくださる。私が自分の父親にできなかった質問をシュナイドマン先生にしているような感じがする。唯一20年前と異なるのは,自宅の中庭ではなく,寝室で話をすることと,長い間話すことができずに,疲れると,「しばらく休みたい」と言ってくることである。もちろん,以前のように,マレーやメルヴィルについて熱く語ったり,ライフワークについて詳しく解説してくださるのだが,それ以外の話題も増えてきた。迫りくる死,人生の意味,家族,友情,仕事,愛といった話題で,シュナイドマン先生が話し始めることもあれば,私の質問から話題が次々に広がっていくこともある。ベストセラー「モリー先生との火曜日」を読んだときにまず私が思い出したのは,こういったシュナイドマン先生との会話であった。
 さて,2006年12月の会話を今でもはっきりと思い出すことができる。先生は精神療法を受けていると話していた。これが本書でも出てくるエセル・オダーバーグとの精神療法である。

シュナイドマン「この歳になって精神療法を受けようと思ったのは,あれこれ語ってきたものの,自分のことについて何ひとつ話してこなかったように思えるからなんだよ。エセルはこの近所に住んでいるセラピストで,自宅にまで来て,話を聞いてくれるから好都合だ。私がここまで生きてこられたのは,誰かと一緒に生きてきたからだ。人はひとりでは生きていけない,孤独ではいられないんだ。ヨシトモ,君は自分の問題が何だと思っているんだ? 時々,私を訪ねてくる理由は,助言,鼓舞,承認を得ようとしているのかい? ところで人生に満足していると言えるかい?」
高橋「そうですね。人生に完全に満足しているとは言えませんね。自己不全感というか,どことなく自分が嘘くさい(phony)感じがしています」
シュマイドマン「phonyだって? いい単語を知っているじゃないか。それはまさに私に当てはまる言葉でもある」
高橋「昨日,先生は自分のことを,帝政ロシア時代に生きていたユダヤ人の根本的不安感が根底にあるのに,それに比べると,今は亡き奥様は根本的信頼感に裏打ちされていたと,話していましたね(17)。私にも,そんな根本的不安感があるように思えるんです。私の両親は帝政ロシアから日本に来たわけではありませんけれど。私が精神科医になったのもそもそもそんなところに原因があるのかもしれません。この年齢になってもあるがままの自分で安心していられないというか……。」
シュナイドマン「ではサイコセラピーを受けてみたらどうだい」
高橋「サイコセラピーですか? そこまで大げさに考えなくてもよいのでは。病気というとらえかたはしていませんし。要するに,単なる中年危機のようなものですよ。でも,こんなことを考えてみると,自分が毎日,患者さんに対してやっていることを自分自身で否定しているような感じがしてきました。どうして,こんなことに気づかなかったんだろう?」
シュナイドマン「自分が毎日治療に当たっている患者さんにはサイコセラピーが効果があるのに,自分には効果がないというのは,不思議だね。一度,試みてみる価値はあるよ。試してみても,損はしないさ」

 こんな具合に先生には私などすべてを見通されているという気がいつもしている。
 先生はこのときも,「そうだ,エセルに来てもらおう」と電話器を取った。私に紹介するためだけに,セラピストを呼びつけるというのはあまりにも相手に失礼に思って,私は必死で断ったのだが,言うことを聞く先生ではなかった。しばらくして,エセル・オダーバーグが到着すると,「私は少し昼寝をするから,その間に,エセルと私のことを話していなさい」と言って,シュナイドマン先生は寝室に行ってしまった。私とエセルは苦笑を交わしながら,「エドは不思議な魅力がある人だ」という結論に落ち着いた。
シュナイドマン先生はエセルとの精神療法の中で本書の企画を思いついたという。その精神療法は一般のものとは異なり,時に,先生が講義しているようになることもしばしばだったとエセルは述べている。セッションの最中に,シュナイドマン先生は50代半ばで書いた『人間の死』を,90歳になって,自らに迫り来る死を前にして,再考してみることを思いついたのだ。
 エセルはこの精神療法を次のように描写している。「精神療法によって彼は創造的で心理的な刺激を受け,自分の死についての個人的な感情を探ることができたばかりでなく,死や死にゆく過程について以前に書いた本を再検討し,三五年前の自分の考えが90代になっても通じるのかどうか確認できた」「専門家としての生涯を通じて,死,自殺,死にゆく過程を理解しようと努め,研究してきたエドウィン・シュナイドマン博士が今まさに自己の高齢と人生の終末という課題に取り組んでいる。以前には理論的視点から死を研究していたのだが,それは今や個人的な課題,まさに自分自身の課題となっている」「彼は世代性(generativity)の概念を実体化させていった。これはエリクソンが定義した段階のひとつであり,高齢者にはその知恵や知識を次の世代を導くために伝える必要があるというものだ。この本を書かなければならないとエドが考えたのは,死生学の領域への貢献を示している。(中略)彼は死ぬまで自分の知識や経験を他者とともに分かち合うことを望み,そうすることが必要であるのだ」
 シュナイドマン先生はserendipityという単語を好んで使うが,まさに「思わぬ発見をする特異な才能」「まったく予期していなかった幸運」である。私にとっては,すべては山梨から始まった。四半世紀前の出来事を振り返ってみて,人生には何が待っているかわからないとつくづく思う。山梨に行ったこと,そこで経験した出来事,そしてシュナイドマン先生との出会いと,私にとってはserendipityそのものである。
本書は単なる自殺予防の冊子ではない。人間の生と死,そして愛する人や自分自身の個人的な生と死について考える際の貴重な手引きとなるだろう。
……(後略)

2009年5月 訳者を代表して 高橋祥友