監訳者解説「ユングとサールズへのナビゲーション」より抜粋

 本書『ユングとサールズ』は,David Sedgwick, Jung and Searles: A comparative study, Routledge, 1993の全訳である。もとが著者セジウィックの博士論文だったからだろうか,読者に深層心理学の知識が多少ともあることを前提として書かれている。そのため,そうした領域にあまりなじみがない専門家には理解しにくいところがあるかもしれない。そこで,この解説を付しておくことにした。近年では,臨床心理学を専攻してはいても,事実上,認知科学的ないし行動主義的な考え方しか知らない人が増えていて,ユングだのサールズだのと聞いただけで「?」になってしまうことが多いからである。
 以前から言われているように,どのような立場からアプローチするにしても,人間的な深い関わりがあってこそ,心理療法は効果を発揮する。治療者は自分の使った技法の力だと思い込んでいるが,実際にはその技法を使った治療者のあり方こそが技法に力を与えているのだ。治療者のあり方がしっかりしていれば技法の選択は周辺的な問題にすぎない,と言っても過言ではない。「治療者のあり方」というのは難しいテーマだが,それを中心的な課題として発展してきたのが,ほかでもない深層心理学である(なお,深層心理学とは,無意識の存在を作業仮説として想定する立場のこと)。 深層心理学は長い時間をかけて,類を見ない人間観や世界観を育んできた。そして,それは,治療者のあり方を根底から問い直すための仕掛けでもある。なかでもユングとサールズは,みずからの内的経験を徹底的に見つめることから治療者のあり方を探求した臨床家と言える。したがって,本書は,単なるユングとサールズの比較研究であるにとどまらない。各種の心理療法技法に共通して応用しうる,深層心理学的な洞察と知恵に満ちている。深層心理学に詳しくない専門家にぜひ読んでほしい。
 本書はまた,心という不可思議なものの秘密に少しでもふれたいと思う一般読者にもお薦めである。臨床心理学は,英語で言うとclinical psychologyで,「psycheの学問」の意なのだが,冒頭にも述べたように,近年ではpsycheというよりmindの学問になっている。psycheには,不可知の無意識的側面をも含む心といったニュアンスがあるのに対して,mindは,むしろ精神と訳すのがふさわしい,理知的で意識に近い心を指すことが多い。今の臨床心理学は,いわばclinical mindologyである。それはときに,有機的な一つの全体だった心をバラバラにして,知的に把握しやすい部分のみをいびつに拡大して示す。心を,そっくりそのまま心として,やわらかく理解したい一般読者には向いていない。そういう方々には本書が適当である。
 しかしながら,本書は高度に専門的な内容を含んでいて,しかもそれがしばしば驚くほどさらりと記されている。不慣れな読者は戸惑うこともあるだろう。今から述べるのは,読者が『ユングとサールズ』を読むのに必要な予備知識である。本稿が,ユングとサールズの理解に至るためのナビとして役立てば,と思う。もちろん,細かいところまで解説する余裕はないので,ほんとうに基本的な内容に限られる。それ以上のことについては,各自であたってほしい。……(以下略)