あとがき

ルーテル学院大学名誉教授 前田ケイ

 私がこの本と出会ったのは2004年の5月,カリフォルニア州サンデイゴ市で開かれたリハビリテーション会議に出席しているときだった。展示会場で,「これはすばらしい本だよ」と薦めてくれた売り子さんの言葉に気軽に応じて買い求め,ホテルの自分の部屋に戻って,昼休みに最初の頁を開いたときから,私はあっという間に14歳のケンが経験した「声」に一緒に耳を傾けていた。本を置くことができない。それからどうなるの,次はどうなるの,とその先を知りたくて,会議に出ることも忘れ,夢中で読み進め,とうとう徹夜して読み終えた。何度も,何度も,アメリカ精神医療の光と影,当事者でなくてはわからない現実に打ちのめされ,また,新しい展開に心が高揚し,病気を持つ人の微妙な気持ちの動き,周りの人たちとの繊細な心の交流に深い共感を覚え,いくども涙を流した。ひとりでも多くのかたにこの本を読んで頂きたい。この熱い思いは,あのときから今も変わらない。
 ケン・スティールの稀有な経験を一冊の魅力ある本にまとめた書き手はクレア・バーマン。1999年4月2日,ケン・スティールは出版社の一室ではじめて彼女と顔を合わせた。自分の経験を本にまとめるため,協力してくれるライターを探していたケンと面白いプロジェクトを探していたクレアはすぐ気が合い,仕事仲間として,ケンの伝記をまとめる作業に着手した。ケンの住まいでの聞き取り,ときには2時間を超える電話での質疑応答,メールやファックスでの事実確認,それは必ずしも円滑にはいかなかったとクレアは振り返る。病気と闘いながら,自分らしい生活を築いてきた人生を文字にする仕事は語り手と書き手の相互信頼がなければ進まない。思い出したくもない辛いこと,恥ずかしいことに正直に向かい合い,真実の出来事を一つひとつ振り返る作業はお互いのすべてを受け入れる「家族の信頼」がなくてはできない。「僕にはお姉さんがいないんだ」というケンに「ほら,いま,目の前にいるじゃない」と答えたクレア。仕事の合間にケンはクレアの家族が仕事の犠牲になっていないかを気遣い,クレアはケンに働きすぎないように,身体を大事にするように,いつも忠告していたという。
 なぜ,ケンがこの本を書きたかったのか。クレアの質問に答えたケンの理由,ケンの期待はたくさんあった。ケンが編集長をつとめていた『ニューヨークの声』の記事を参考に,ケンの願いを以下にあげてみよう。
    (1) この本の中に出てくる統合失調症の自分やその他の人をみて,ひとりぽっちじゃない,絶望しなくてもいい,とわかってほしい。
    (2) 統合失調症と家族,治療にあたる専門家,そして世間の人たちがいまや統合失調症は治療できる病気になった,効く薬があり,望めば仕事や家庭も持ち,フルに自立した生活ができるとわかってほしい。
    (3) 自分や他の人の話を通して,人は自分の病気とどう向き合うかを選べることを知ってほしい。効果的な治療と薬で成功する道を選ぶか,打ち負かされて一生人に頼る生活を選ぶのかを自分で決められる。
    (4) 家族は本人を否定することなく,できるだけ早く病気を見つけ,助けを手に入れてほしい。本人の教育や成長を妨げることなく,生産的な生活ができるように支援してほしい。
    (5) 治療にあたる人には病気の裏にある本人の魂を見てほしい。そして,その魂を救ってほしい。
    (6) サービス供給者には統合失調症患者を一般の人から引き離すようなプログラム,それによって一層依存心が増すようなプログラムを止めて,社会の主流に統合していくようなチャレンジングな職業訓練や教育プログラムを増やしてほしい。
    (7) 法律をつくる人たちに,真にこの統合が実現するような政策と予算措置を望みたい。
    (8) 統合失調症患者と他の人々に,立ち上がってほしい。積極的で,投票権を行使する市民となり,自分の権利を自分で守るために発言する人になってほしいと願う。
    (9) いろいろな精神疾患を持っている人たちに,そして人間社会を良くしたいと願っている人たちに,どうやったら目的に関わっていけるかをこの本で示したい。
    (10) 自分の物語を通して,マスコミの人たち,芸能界の人たちの統合失調症に対するイメージを変えるように励ましたい。医療や法律,その他の分野で,失敗よりも多くの成功が当事者によって成し遂げられていることを正確に報道してほしい。
 2000年の10月5日,ついに原稿は完成し,出版社に手渡された。「やったね! 本当にやったんだ」とケンは言った。「そう,できたわ!」とクレアは言った。
 その2日後,ケンはこの世を去っていった。多くの人に惜しまれたケン。そのすべての人が言った。ケンはいない,でもケンの仕事は続くと。私たちも立ち上がって,その仕事を続けていく仲間になりたい。