訳者あとがき

 ナンシー・マックウィリアムズは今,精神分析のなかできわめて重要な位置にいる。彼女の本が米国で成功しているのもそのためだろうし,今の日本において,彼女が出した三冊の本がすべて邦訳されたことも,このことを裏付けているように思う。
 かつて力動精神医学が華やかであった60年代において,精神分析をしていることは,米国の精神科医ならば当然という時代があった。その時代,精神分析はそれほど他の心理療法との連続性を問わなくても良かったし,逆を言えば,(ロジャース本人もそうだが)精神分析以後に登場した心理療法のほとんどは,転移その他の概念を仮想敵のようにして,自らのシステムを作り出してきたとも言える。
 ところが医療費削減を出発点とした,米国の精神保健のシステムは,60年から70年の間に大きな変貌を遂げ,精神療法にそれほどお金を払えなくなったし,何より精神医療の中心はドラッグ・サイエンスの成功のほうに大きな舵取りをした(プロザック時代prozacnationという言葉ができるほど,その成功には目覚しい)。経済的なパイの配分は精神療法に厳しくなり始め,それにしたがって研究費をはじめ大きな構造的変換が70年代の間に医療の世界で起きた。今では医学の世界では,効果はともかく効率の良いと考えられている認知行動療法や短期療法が一大勢力だし,心理療法の業界は変化を手早く求めるさまざまな技法が乱立ぎみになっている。一時期は千人近くいた精神分析のインスティチュートは縮小気味だし,候補生になる精神科医も減った。ルディネスコが『いまなぜ精神分析なのか』(洛北出版)という本のなかで最近のフランスの現状についても触れているが,どうもこうした事情はグローバルなことらしい。これを精神分析の衰退と呼ぶのは簡単だが,客観的に見て,米国の場合,ヘイルという歴史学者が述べているように,精神分析は医学の世界で少々「成功しすぎた」ともいえる。しかし,20世紀半ばのクロールプロマジンの開発まで,精神分析(そして森田療法)を除いて批判に耐えうるような精神科治療はなかったという事実を考えるならば,さらには当時の医学的知を結集した精神分析の医学への適用の試みは,少々「成功しすぎた」というよりは大いに成功したといってよいであろう。現代の心理療法諸学派の成り立ちは,あの時代の壮大にして膨大な知の試みを礎にしているからである。かくして,今日,精神分析は正常化して,いろいろな治療法の選択の一つになっている。
 今ではマックウィリアムズのような,医学外からの分析家を受け入れるインスティチュートが増えているし,かつて米国では圧倒的に精神科医が多かった大人の精神分析は法的にも非医師が行うことが可能になっているので,投資の見返りの少ない長期の訓練に来る人たちは,長期的にこのアートに向き合うために,本当に精神分析を求めて転移のなかで入会する。
 彼女はこうした米国の変化を,「成熟期」だと冷静に述べるが,確かにそういう面もあるだろう。理論が強くなるのは,流行が過ぎて,それを地道に検証する作業の後のことである。今考えてみれば,マルクス主義も中国の毛沢東とロシアのスターリンとがその本家のように言われていた時代は宗教のようなものだったので,それを本格的に研究するには無理があった。その流行が去り,ベルリンの壁崩壊以後の今,マルクスは真剣に読みなおされているし,研究にはもっとも良い時期だといえる。精神分析について言えば,フロイトを天才医師として崇拝する人たちよりも,さまざまな学問の中で批判的に考える人たちのなかでこそ,理論は強化されるのだと思う。今では心理学者やソーシャルワーカー,あるいは文学や社会学,法学を勉強したさまざまな動機を持った人たちが精神分析のインスティチュートに入ってくることは,この傾向を裏付けている。また訓練分析,個人分析は精神分析のトレーニングのなかでもっとも良質な遺産だと言えるが,医師にしろ,ソーシャルワーカーにしろ,自分が大変なケアの仕事についている人たちで,治療のためではなく,自分を支えるために個人分析を受けに来る人たちは依然として多い(80年代のデータではあるが,精神分析以外に目を向けるとカウンセリング需要は大きい)ので,この技法の良質な面の多くは今でも維持され続けている。マックウィリアムズ自身,政治学の勉強をしていた人で,自分のために精神分析を受けたことがこの世界に入るきっかけだったと語っている。
 マックウィリアムズの本はどれも精神分析プロパーのための本というより,精神分析で得られたさまざまな知見を通して,臨床的な事柄をひろく取り扱う点が特徴だろう。一冊目の『パーソナリティ障害の診断と治療』はDSMのパーソナリティの軸と連動できる形で精神力動的な特徴を分類した本だったし,二冊目『ケースの見方・考え方』(ともに創元社)は分析的な事例フォーミュレーションについての本で,事例をアセスメントして力動的に見るための基本的な事柄がきわめて臨床的に描かれている。そしてこの三冊目の本が,心理療法についての本書だが,やはり精神分析プロパーだけではなく,心理療法を志す多くの人々が読んでも分かるようにできている。こうした他の療法家が読んでも精神分析の良質な,そしてきわめて臨床的な取り扱いが分かるように書かれている点で,マックウィリアムズの本は,他に類を見ない。
 マックウィリアムズの姿は,米国心理学会で専門家のために作られている心理療法シリーズのなかの一巻で「精神分析的心理療法」としてDVDで見ることができるが,優しく共感的で,しかも洞察を導く面接のアートにはとても感動する。現在彼女はニュージャージーのフレミングトンで開業しながら,ニュージャージー州立大学ルトガー校で応用職業心理学の大学院で精神分析理論と療法と教えている。彼女が分析に出会った過程については,本書でも,そしてAPAのビデオでも述べられているので本文を参照していただきたいが,彼女はNPAP(米国精神分析心理学協会)の1978年の修了生で,その後,ニュージャージーの精神分析,心理療法インスティチュート,北カリフォルニア精神分析インスティチュートの現代精神分析のナショナル・トレーニング・プログラム,そして現代精神分析研究のためのミネソタインスティチュートなどで教えている。米国ばかりではなく,カナダ,メキシコ,ロシア,スウェーデン,ギリシャ,トルコ,オーストラリア,ニュージーランドと引っ張りだこだ。
 ……(後略)

2009年9月