はじめに

 ロールシャッハ・テストを実施して得た記録(プロトコル)から,クライエントのパーソナリティに関する情報を得るための解釈法に一定のものはなく,学派や心理臨床家の考え方によってかなり異なっている。例えばクロッパー(Klopfer, B.)の現象学的解釈など,どちらかというとアート的になされる立場と,ベック(Beck, S.)のように客観的資料に重点をおいて解釈を進めるサイエンス的立場が見られる。しかし両者の差異は,ウエイトの置き方の違いであり,クロッパーが変数の比率やサイコグラムを用いて,数量的検討を無視しないのと同じように,ベックの事例解釈の記述には,数量以外の多くの推論が加わった詳細な解釈がなされている。他方,1968年にエクスナー(Exner, J.)が,実証的根拠により構築した包括システムは,その後発展を続け,現在では世界でロールシャッハ・テストを用いる人のコミュニケーションのための共通語となっている。包括システムがサイエンス的立場を重視しながら,アート的立場も包括していることは,彼がエルドバーグ(Erdberg, P.)と共著で公刊した彼の最後の書物(2005)にも明らかである。
 どのような立場によるにせよ,心理臨床家がロールシャッハ・テストの解釈を行う時は,つねにクライエントのプロトコル全体を意識しながら,まず量的・サイエンス的アプローチである構造(形式)分析を行い,これに反応の流れを重視する系列分析や,内容と言語表現の分析という質的・アート的アプローチを統合しているのが実状であり,包括システムのステップ解釈も同じである。
 著者はかつてクロッパーの方式に基づくロールシャッハ・テストを臨床場面で行っていたが,1985年頃から包括システムの研究を進め,この方式をわが国の健常者や臨床場面のクライエントに実施し,学生たちにも教授してきた。その成果を『ロールシャッハ・テスト実施法(高橋・高橋・西尾,2006)』と『ロールシャッハ・テスト解釈法(高橋・高橋・西尾,2007)』として公刊したが,解釈に習熟するために,具体的な解釈事例をもう少し知りたいという要望が多かった。そこでロールシャッハ・テストを学ぶ人が,包括システムのステップ解釈に慣れることを目的として,著者が実施した事例の中から,いくつかを取り上げたのが本書である。ただし掲載した事例に特定の意図はないし,一定の理論体系に基づいて順序づけたものでもなく,事例の選択はまったく任意になされている。
 ロールシャッハ・テストの解釈も,臨床心理学の宿命といえるサイエンスとアートの統合が必要であり,経験豊かな心理臨床家の解釈が,初学者以上に心理臨床に役立つ情報を得られるのは当然である。これは解釈に熟練した心理臨床家が初学者と異なり,パーソナリティ理論・文化人類学・精神病理学など,さまざまな領域の知識を豊かにし,多くの臨床経験を積み,それらとの関係でサイエンス的にとらえられたロールシャッハ・テストを,さらにアート的に解釈しているからである。しかし初学者がこのテストに習熟しようとする時,ややもすれば主観的・恣意的になりやすいアート的解釈から始めるのではなく,誰もが同じような基本的枠組みとしての解釈に到達できるサイエンス的解釈から始めるべきであろう。包括システムのステップ解釈は,この最小限の情報を容易に得られる点で,他の体系よりも優れていると著者は考えている。
 本書で述べる事例の解釈は,ロールシャッハ・テストに期待される最上の解釈を示しているのではなく,包括システムによるステップ解釈を行えば,誰もが同じように到達する解釈に近いものを示している。包括システムのステップ解釈の長所は,一定の訓練を受けた心理臨床家なら,誰もが同じように,最大公約数(基本的枠組み)としての解釈を行えることにあるので,事例のパーソナリティそのものの理解よりも,初学者が包括システムの解釈法に慣れることを目的としたのが本書である。しかし同じようにステップ解釈を行っても,解釈変数の関連づけ,反応に投影された内容の検討,反応の内容分析や質的検討については,初学者と熟練した心理臨床家の間に,差異の生じることは否定できない。本書では初学者が包括システムによるロールシャッハ・テストの解釈を理解して実施できるように,ステップ解釈に基づき,健常成人から得られた期待値を基に解釈を進めていく。しかしこの場合でも,得られた数値を機械的に取り扱うのでなく,いくつかの変数を相互に関連させて解釈したり,ステップ解釈の中での質的検討も行うことを忘れてはならない。
 さらに実際の臨床場面において,個々のクライエントのパーソナリティを理解するために,ロールシャッハ・テストを解釈する時は,他の心理テストや生活記録や面接からの情報との関連によって行われるべきであり,査定目的に応じて,解釈の重点の置き方や記述や伝達の仕方を変えねばならない。その意味で本書に記載した解釈は,あくまで基本的枠組みとしての解釈であり,具体的な臨床場面での解釈への通過点を示したものであり,包括システムによるロールシャッハ・テスト解釈への一つの手引きとして用いられれば幸いである。
……(後略)

 2009年6月10日 高橋依子