まえがき

 治療構造なき治療などありえない。一般外来診療であってもそこには何らかの構造がある。まず,診療には,いろいろな関連法規に規定されている,料金体系も構造化されている,といった所与の構造がある。ついで,診療所であればそこの医師の診療方針や理念というのもが何らかの形を成しているといった意味での構造もある。しかし,ひとつの治療が,それを構成する要素の隅々まで,構造化されているかというとそうではない。もし何から何まで構造化したとしたら,もちろんそのようなことは不可能であるが,その治療は息が詰まってしまうような,いや死んでしまったも同然の無機的な存在になるであろう。精神科診療や心理臨床は,どれをとってみても,かなり曖昧で不完全であるが,同時にオープンで生き生きしたものである。それゆえにこそ,個別の症例において,何をどのようにどの程度構造化するか,ということが臨床に必須の作業だと思う。どのような目的で,どんな目標を立て,どのような治療機序を想定して,どのような治療技法を用いて,どのような他職種の人々とどのような連携をして,治療を実践するか,を考えるわけである。
 小此木啓吾は,1950年代に,Freud,S.とFreud,S.以降の精神分析を徹底的に探求し,無意識という実体を個々人の心の中にあると想定するのではなく,構造設定の文脈に即して患者の心を把握することによって無意識に形を与えることができるという考えを明らかにした。たとえば,精神分析的構造設定をすることで形成される現実的境界を認識することによって,私たちは,そのような境界を望ましいと受け止める合理的な思考と,そのような境界は決めたくない,認めたくないといった万能的空想との違いを認識できるのである。つまり,人の心を理解するということは,治療設定の「今ここで」の文脈において,患者は何をどのように体験しているのか,その際ある特定の心的活動すなわち無意識がどのようにして意識から巧妙に身をかわすのかを理解するということである。かくして精神分析とは,患者の連想が自由になることをめざす方法論である,ということになる。これが彼の唱えた治療構造論であり,この理論を用いることによって,カウチと自由連想法を用いた精神分析設定が,フロイトの最大の発見・発明であることを見抜いたのである。こうした精神分析そのものに関する彼の研究と発表が,あのKris,A.O.の「自由連想」(Free Association)が出版される20年以上前のことであったことは,わが国の精神分析を理解するうえで特記しておいてよいことである。
……(中略)
 自分の臨床体験を論文化することも必須の作業である。自分の体験を論文にするということには,必然的に自己に対する批判的態度が必要とされる。つまりは,自分の内的抵抗や無意識の洞察といった過程が伴うところに論文化の価値がある。論文化のもうひとつの価値は公表するというところにある。もっとも,芸術や宗教とことなり,私たちの領域における公表化はさほど広い領域を含まない,一定の視点を共有した専門家の間に限定されているだろう。私たちの論文はきわめてローカルな存在なのだが,同じ領域のほかの論文との対話を通じて,そこから何か新しい思考が生まれることを期待して公表されるのである。これらの視点からいえば,私たちの論文化作業は,普遍的真実を明らかにせんとするいわゆる客観的実証的研究とは違うのである。 本書に収められた論文はいずれも治療構造論そのものを論じたものではない。むしろ,構造化すること,傾聴すること,理論化すること,理解を伝えること(解釈すること),論文化すること(書くこと),という治療構造論的方法の実践のなかから生まれたものである。どの論文も,精神分析と精神医学に準じて,ひとつひとつの事例に対する治療を構想し,それを実践し(であるから事例によっては,家族療法の形態を取ることもあれば個人精神療法の形を取ることもあるし,さまざまな治療形態を組み合わせることもある,あるいは他の職域の人々との連携もある),そして批判検討するという過程の結果なのである。したがって,まったく同じ治療はなにひとつなく,それぞれがユニークなのである。各論文は,本としての体裁上,順番が整えられているが,読者はどこからお読みなっても良いものである。
 以上で,私がなぜ本書のタイトルを「方法としての治療構造論」としたかご理解いただけたかと思う。最後に,私の臨床実践で出合った多くの患者さんやご家族の皆様,そして私の臨床実践におけるパートナーや協働者であった医療関係者の皆様に感謝申し上げます。

2009年10月15日 狩野 力八郎