日本語版まえがき

 ここ10年間の研究は,物質乱用と物質依存が治療可能な精神障害であることを明らかにしてきた。物質使用障害の分野でも,エビデンスにもとづく心理療法や,特定の病態に有効な薬物療法などが続々と登場しつつある。残念ながら,臨床研究によって有効性が明らかとなっているそれらの治療法の多くは,いまだ日本の物質依存の臨床家たちによって幅広く実践されているとは言い難い。他のアジア諸国と同様,日本のアルコール乱用・依存患者の数はアメリカやヨーロッパの国々と比べれば,極端に多いということはないのかもしれないが,世界でも有数の覚せい剤乱用の歴史を持っている国であることは確かであろう。しかし,日本の物質依存の治療に携わる専門家の多くは,これまでアメリカ,ヨーロッパ,オーストラリアなどで開発されてきたエビデンスに基づく治療法を積極的に導入してはこなかった。そもそも日本では物質依存患者に対して入院治療プログラムを提供できる精神科専門病院が乏しく,それら数少ない専門病院の治療プログラムの中身も,ほとんどが自助グループで行われている12ステップに基づくものである。日本における依存症の治療スタイルは,基本的に患者に依存症であることを認めさせようとする「直面化」が未だ主流だが,今や多くのアルコール・薬物乱用患者に対して直面化以外のアプローチが必要であるというエビデンスが集積しつつある。日本では薬物療法以外の外来治療プログラムが事実上存在してこなかったため,依存症患者の多くが退院と同時に専門的な心理・社会的治療を受けられなくなっていた。そして一般の精神医療の現場では,アルコール・薬物依存の治療と中毒性精神病に対する急性期の治療とを同一視してきたため,日本では物質乱用者たちが次々と精神科病院への入退院をくり返す「回転ドア現象」が常態化してしまったのである(Kobayashi et al., 2008)。
 本書は,物質乱用患者を援助する際に必要となる基本的な情報を提供することを目的としている。物質依存治療に携わる臨床家や精神保健の専門家,学生たちに,物質依存の分野における最新の研究成果を紹介することで,根拠にもとづき,さまざまな臨床現場や患者に応用可能な実践的な治療ガイドラインを提供することが筆者らの願いである。本書はまず,物質使用障害の臨床的特徴と分類,疫学について必要最低限の情報を提示する。物質依存の分野における生物学的研究の最新の成果も,学生や臨床家にとって関心があると思われるものを優先し,大幅に取捨選択した上で取り上げてある。参考文献を選ぶ上で筆者らが最も重視したのは,それが物質使用障害の疫学,病因論,臨床経過に関する最新の研究成果であると同時に,臨床家や学生にとって実際に臨床現場で役立つ情報かどうか,という点である。臨床症状や病因論だけでなく,本書はアルコールや中枢神経刺激薬(たとえばコカイン,覚せい剤),オピエート(ヘロイン),幻覚剤(LSD),大麻,その他クラブ・ドラッグ系(たとえばエクスタシー)の乱用や依存に対する診断や治療の指針も提供している。さらに症例も提示して,具体的に臨床症状や診断方法,治療の手順などを説明した。
 本書が取り上げた治療方法は,すべて臨床研究の成果にもとづいている。また,本書で引用した治療研究や提示した症例のほとんどは外来治療が舞台となっている。今後は日本でも,外来治療を主体とする依存症治療施設が増えていくことを期待したい。筆者らが目指したことは,特定の治療法の有効性を主張するのではなく,むしろ現在利用可能な臨床上のエビデンスをくまなく提示することである。そのため臨床研究の成果が全くないか,わずかしかない治療法については省略した(たとえば精神分析療法やシステム論など)。さらに本書が想定した物質乱用患者は主として成人である。われわれの目的はエビデンスにもとづくさまざまな治療法を先入観にとらわれることなく紹介することにあり,伝統的な精神療法の学派が提唱する根拠の乏しい学説には影響されないよう極力配慮した。むしろエビデンスにもとづく治療法について幅広く選択肢を検討し,どの治療法が患者のニーズに最も合致するか,臨床家が判断する際に参考となる点を詳しく論じるようにした。同様に,薬物療法の長所と短所もできるだけ客観的に提示して,個々の症例で果たして薬物療法が役に立つか否か,臨床現場で判断する際の材料となることを目指した。
 実際の臨床場面を論じた章では,科学的な根拠のある物質使用障害の治療法について詳しく紹介し,具体的にどのように治療計画を立て,特定の技法をどのように用いるのかについてガイドラインを提供した。また個々の症例を通して,主訴とそれに対応した治療手段,最終的な治療目標などを整理し,読者が全体的な治療の流れを理解しやすいようにした。さらに必要な箇所には,状況を把握しやすいように患者とセラピストの実際の会話も挿入した。
 筆者らの関心はあくまで実際に臨床場面で出会う生身の患者であり,大学や研究所の実験動物や被験者ではない。したがって,実験では再現困難な多剤乱用者の治療や,パーソナリティ障害などの他の精神障害を合併した物質乱用患者の治療も取り上げた。本書は,実際の臨床現場で物質依存の患者たちの援助に携わっている人々と,臨床研究者たちの両者を読者として想定している。物質依存に携わる臨床心理士やカウンセラーを養成する際の教科書として用いることもできるし,経験豊かな臨床家にとっても最新の知見は参考となる点が多いであろう。物質依存の臨床研究に携わっている方にとっては,本書がさまざまな研究成果を紹介し,おのおのの結果について批判的な評価を加えている部分が有用と思われる。参考文献に多くのページを割いていることも本書の特徴であり,関心領域に関する文献を検索するための資料として利用することもできる。心理学や社会福祉,精神医学などの分野で物質依存患者の援助に携わっている臨床家や,学生,研究者など,幅広い読者に本書が受け入れられれば幸甚である。
 本書が世に出る過程では,多くの人々や関係機関にお世話になった。まず,物質依存の治療施設や精神保健センターで何年間も関わってきた患者の皆さんに感謝の意を表したい。プライバシーに配慮して,個人が特定されないよう,症例を提示する際には内容に大幅な改変が加えてある。さらに,ワッセナーにあるオランダ人文社会科学高等研究所(Netherlands Institute for Advanced Study in the Humanities and Social Sciences: NIAS)の職員たちにも大変お世話になった。パウル・エンメルカンプがNIASの研究員だった当時,本書で論じた文献のほとんどを収集してくれたのは彼らである。
 本書が,物質依存患者を支えるために日々奮闘している日本の専門家たちにとっても,今後エビデンスに基づく治療を提供していく際のガイドラインとして役に立つことを願っている。

引用文献
Kobayashi, O., Matsumoto, T., Otsuki, M., et al. (2008). Profiles associated with treatment retention in Japanese patients with methamphetamine use disorder. Psychiatry and Clinical Neurosciences, 62, 526-532.

P.M.G.エンメルカンプ & E.ヴェーデル