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巻頭言

認知行動療法への期待と専門家の責任
 1990年代は,日本社会の大きな転換点でした。安全で繁栄していた日本は,1990年代を境として大きく変貌しました。マスメディアでは,うつ病や自殺,ひきこもりやニート,犯罪や非行,PTSD,ストレスといった心理的問題が毎日のように報道されるようになりました。職場における過労やうつ病の増加が社会問題となりました。とくに,うつ病や自殺に対しては社会的な関心が高まっています。1998年以降,自殺者数は毎年3万人を越えています。メンタルヘルスの専門家の社会的責任はますます重くなっています。
 こうしたなか,認知行動療法は,社会から注目を集めています。認知療法は,うつ病に対する治療法として確立されましたが,1990年代に,行動療法と合体して「認知行動療法」と呼ばれるようになりました。認知行動療法は,うつ病だけでなく,不安障害や発達障害,摂食障害,統合失調症の症状(幻覚や妄想),パーソナリティ障害にも適用されるようになりました。認知行動療法は,他の治療技法に比べ,短時間で,確実な効果があらわれることが証明されています。認知行動療法の発展によって,メンタルヘルスの専門家の治療能力は格段に進歩したと言われます。
 日本においても,認知行動療法に対する関心はとても強くなっています。2007年に行われた第5回『臨床心理士の動向ならびに意識調査』は,10,157名の臨床心理士の回答をまとめたものです。そのなかに,「学びたいと考えている臨床心理面接技法」を尋ねた項目があります。5つのアプローチをあげて,学びたいかどうかを尋ねるものです。その結果をみると,折衷的アプローチが74.2%で最も多く,ついで,行動療法・認知行動療法的アプローチ(72.8%),精神分析・分析心理学的アプローチ(59.6%),システムアプローチ(52.9%),人間性心理学的アプローチ(50.3%)の順でした。つまり,個別の技法としては,精神分析や人間性心理学的アプローチを抜いて,トップとなりました。日本の臨床心理士の7割以上は,行動療法・認知行動療法を学びたいと思っているわけです。
認知行動療法家の養成を何とかしなくてはならない
 このように臨床現場では期待の高い認知行動療法なのですが,養成の体制はとても遅れています。アメリカ心理学会認定の臨床心理士養成大学院では,8割のコースが認知行動療法を実習に取り入れ,半数のコースが,認知行動療法を最も主要な技法としています。イギリスでも,英国心理学会認定の臨床心理士養成大学院では,認知行動療法を最も主要な技法としています。これに対して,日本の臨床心理士の指定大学院では,認知行動療法の訓練を行っているのはごく一部にすぎません。認知行動療法を学ぶ場がほとんどないため,現場の臨床家はたいへん困っています。
 こうした状況を打開するために,多くの人々が努力しています。日本認知療法学会や日本行動療法学会は,毎年の大会で多くのワークショップを開き,普及に努めています。また,認知行動療法を学ぶための研修機関もどんどん設立されています。
 さらに,認知行動療法を自主的に学ぶための研究会が全国各地にできています。本書を翻訳した東京駒場CBT研究会もそのひとつです。東京大学駒場キャンパスには,認知行動療法に関心のある臨床心理士が多く集まり,研鑚に努めています。そこで,丹野や石垣を中心に,東京駒場CBT研究会を作りました。2006年には,丹野が研究代表者,石垣が連携研究者となり,文部科学省の科学研究費補助金「統合失調症に対する認知行動療法の効果研究と臨床心理士への普及」を得ることができ,認知行動療法を日本の臨床心理士に普及させる活動を行いました。今回の翻訳は,一部,この科研費の補助を得て実現しました。本書は最初の成果ですが,今後も出版やワークショップなどを中心として,一歩一歩努力していきたいと考えています。
 本書は,認知行動療法の開始から終結までの各様相ごとに,基本的な考え方やテクニックを簡潔にまとめています。細かい点まで気を配って書かれているのが特徴です。認知行動療法の優れたテキストはすでに数多く世に出ています。しかし,若い臨床家・研究者と限られた時間のなかでディスカッションするうちに,「もう少しコンパクトに,かつ,痒いところに手が届くテキストはないものか?」という要請が出されるようになりました。その時出会ったのが本書でした。全体を通して読めば認知行動療法の全貌が理解できますが,時間がない時のクイック・リファレンスとしても大変役に立つでしょう。また,認知行動療法に対する誤解もまだまだたくさんありますが,こうした誤解を解いてくれるのも本書の特徴と言えます。
イギリスを代表する認知行動カウンセリング心理学者ニーナンとドライデン
 著者ニーナンとドライデンは,イギリスを代表する認知行動カウンセリング心理学者と呼んでいいでしょう。
マイケル・ニーナンは,もともとは論理情動療法(REBT)を学び,セラピストとなりました。論理情動療法協会(AREBT)が認定した論理情動療法カウンセラーであり,AREBTの副議長と学会誌副編集長をつとめました。論理情動療法と認知行動療法は兄弟の関係にありますので,ニーナンは認知行動療法も身につけて,英国認知行動療法学会(BABCP)の認定セラピストとなり,連合王国心理療法協議会の登録認知行動療法セラピストの資格も持つようになりました。
 現在,ニーナンは,ロンドンにあるストレス・マネジメント・センターの副所長をしています。このセンターは,1987年に,ストレス・マネジメントの教育・臨床のために創設されました。所長はステファン・パーマー氏がつとめています。ストレス・カウンセリングやコーチングなど,治療者訓練プログラムを開催しています。そのなかに,認知行動療法と論理情動療法の治療者訓練プログラムもあり,その主任をしているのがニーナンです。
 ニーナンは執筆活動も旺盛であり,これまでに20冊近くの本を出版しています。1990年代は,ドライデンといっしょに論理情動療法の本を多く書きました。2000年以降は,論理情動療法に加え,認知行動療法についての本も多く出しています。
もうひとりの著者ウィンディ・ドライデンも,アメリカのアルバート・エリスに論理情動療法を学び,セラピストとなりました。現在は,ロンドン大学のゴールドスミス・カレッジの職業コミュニティ教育学部(PACE)の教授をしています。
ドライデンは,論理情動療法や認知行動療法について,これまで130冊以上の本を編集しています。イギリスの書店の心理学やカウンセリングのコーナーを覗くと,ドライデンが関係した本が必ず並んでいます。ドライデンの仕事を抜きにして,イギリスの認知行動療法やカウンセリングは語れないでしょう。ドライデンの本で,邦訳のあるものは数冊におよびます。丹野が監訳したドライデンとレントゥル編『認知臨床心理学入門』(東京大学出版会刊)もその1冊です。この本は,イギリスの認知行動アプローチの全体像を体系的に解説しており,臨床心理学の新しい運動を強く感じさせます。この本に続き,丹野がドライデンの本の翻訳にかかわるのは本書が2冊目になります。
……(後略)

丹野義彦・石垣琢麿

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