あとがき

 「うつ」はまともな病気だと言っているが,実際に,死にたいほど苦しいのに本人は自分が「病気」だとは夢にも思っていない。
病気だと思うと,治してもらおうとするし,治す手段があると思う。
 それは,薬であるとかカウンセリングである。
 しかし,軽重にかかわらず,自分が「病気だ」という自覚のない人が少なからずいる。
この種の自覚のない「うつ」の人は,例によって自分の「性格」が明るくないとか,「努力」が足らない,と言って自分を責めて,責めて,自縄自縛に陥って抜け出せないでいる。
 たとえば,偶然,車のセールスをしている人に会ったことがある。
 彼は生真面目な人で努力家でもあるが,会社での業績は最下位である。上司からは「車」を売るのではなく「自分」を売るのだ,と言われ,客と親しくなり,自分に興味を持ってもらはなければ,商談にも乗ってこない,ということはわかっているので,自腹で呑み屋に誘った。
しかし,面白くもない話を無理して喋っているので相手は迷惑そうである。
 自動車の知識があれば相手を説得できるかと思って,自動車工学専攻の人も顔負けする程勉強したこともあったが,客を感心させたところでかってくれるとは限らない。
 最近では,朝,起床しても心臓がドキドキして出勤するのがつらい。店に来ている客は,車を買いたいと思って来ているはずであるが,自分が話を始めても無理して喋っているので,商談にならない。
 こうなると,人に会うのがこわくて,わざと客と合うのを避けてコーヒー店で時間を過ごしたりしていることが多い。「今月もまだ一台も売れていない」と,いつも自分を責めているが,いつまでも会社に迷惑をかけるわけにいかないと思っている。
 彼は一流大学卒である。親には,口がさけても自分のみじめな状況を話せない。こうなると「重大な決心」をしなければならない,となる。
私は彼に,「あなたはどう思っているかしらないが『うつ』です」と言って,面接治療を提案した。
 彼は,実情が何か知って逆に安心した。
 本文にもあるとおり,「うつ」の人は,自分にきびしいという自覚がない。だから,自分にやさしくなるということを目標に治療をすすめる。
 彼は,次第に自分自身の発想法が,客との関係を阻害していることを知る。
 このことは大きな前進である。だが,それは,心理的側面での進歩にすぎない。たしかに軽度の「うつ」はそれによって顕著な改善がみられる。
 しかし,セールスのような目に見える成果や業績がはっきりわかるような仕事の場合,契約や数値など「社会的現実」が改善しないなら,いくら「自分にやさしくなった」としても,「現実」が自分を責める。
 たとえば,「車が一台も売れていない」とか,「食べ汚した食器類が洗わずそのままになっている」とか「片付けができない」「報告書を仕上げなければと思っても一日延ばしで放置している」という「現実」が改善しなければ,「うつ」は治らない。
 われわれは,「心理」も扱うが,このような「社会的現実」の改善も援助しなければ,「うつ」は治ったことにならない,と思っている。
このような新しい視点と方法を「心理社会療法Psycho-Social Therapy」と言っている。それは,「うつ」の患者さんの回復にもっとも役立つ治療法だと考えている。
 今回,専らこの種の専門書を扱っておられる金剛出版,社長立石正信氏に当方の意向をお伝えし,出版の依頼をしたところ快諾していただいたことを心から喜んでいる。
・・・・・・後略

二〇一〇年三月一日 新潟県月例「治療研修会」華鳳にて 著者 黒川昭登