対談を終えて―あとがきに代えて

 二〇〇八年の五月から翌二〇〇九年の一月にかけて、大正大学カウンセリング研究所において、田中康雄先生、村山正治先生、中井久夫先生、青木省三先生、新保幸洋先生を講師としてお招きして、『統合的心理援助』についてシリーズの公開講座が開かれた。講師にそれぞれのお立場から御講演いただき、その後引き続いてその内容をもとに、理解を深め、また、今後の実践や思索について示唆を戴きたいと願って、演者と私が対談を行った。その内容をこのような一書にしていただいた。こうした独創的で臨床的に意味があろうと期待される企画を立案実施された大正大学カウンセリング研究所の当時の滝川一廣所長他教職員の皆様、この一連の公開討論の内容の意義をご理解を下さり、書籍として刊行された立石正信金剛出版社社長、編集作業を緻密に進め、適切な小見出しを付して絵画に額装する趣で文章を整えて下さいました藤井裕二氏、池田直美氏、また、さらりと描かれながらも味わい深い草花の絵を装丁に描いてくださいました中井久夫先生、細かい心配りで装丁をしてくださった臼井新太郎氏にこころから感謝を捧げたい。
 講師の方々は何れもご自身の実践に裏打ちされた、極めて刺激的かつ独創的な内容のお話しを活き活き率直にして下さった。演者が話されたあとの対談では、私は聴き手として、フロアの皆様の関心や質問を代弁するような心持ちで、さらに演者から講演内容を展開し、深化したお話しを伺いたいと考えた。今後の課題を見出したい、と願って質問させて戴き、時にはご自身では謙譲のお気持ちも手伝っていらっしゃると思われるところを私の方からおそるおそる言語化して、お伺いさせていただいた。どの演者も私のこの秘かな願いに、見事にお応え下さったことは本文を読まれての通りである。改めて厚くお礼を申し上げたい。
 講演を拝聴しているとき、その後に続く対談、それらは私にとってまさしく活きとし、濃密な生きられた時間であった。この間、私は対談という営みが実りある展開をするためには次のような幾つかの要因が求められることに気付いた。振り返って、これらの要因を十分自分は満たしていたであろうかといささか心許ないが、それらを列挙してみよう。

@相手が伝えようとすることを、伝えられたままに素直に受けとろうとする。
A伝えられた内容をただ対象化して情報として聞く、という次元に留まらず、関連する知見や経験を生き生きと想起し、聴き手は自分の内にある考えや感情にそれらを一度照合し、潜らせ、それから伝えられた内容を対象化する。これらは実際に瞬時に営まれる作業である。
B聴き手が@Aにあるような姿勢を持っていると、話し手も、自分の中の疑問や曖昧な考えや感情を見つめて、何とかその実体を明らかに捉え、言語化してみよう、という動きが生じてくる。
C聴き手が@やAのような姿勢で聞いていると、語り手には、話しながら考えるという営みが生まれて、話す過程で気づきが生まれてくる。
D上述したような一連の過程が生じると、語り手は自分の語ったことについて、自然に再吟味を行うようになる。つまり、自分はどのくらいまで確かに分かり、どこからを現在検討中なのか、何が課題なのかがほの見えてくる。
E対話を通して、呼吸が合い、ちいさなことでも発見があって、相互に世界が拡がったという体験をすると、内容の不足分についての気づきや悔いに似た気持ちが仮にあっても、一方で、励まされるような思いと展望が開け、爽やかな終了感を持つことができる。

 これらの要因を再認させてくださった対談のお相手の方々に深謝したい。
 本書の標題でもあり、私がそっと控えめに主張してきた統合的心理援助の特質については、第六章で、新保幸洋先生が他の統合的心理療法と称されるものと比較しつつ、明快に論じ描き出してくださっている。さらに村山正治先生も第三章で、クランエントセンタード学派の近年の発展過程と比較しながら私の目指してきた統合的心理援助の特質について語っていらっしゃるので、同じ内容について敢えてここで屋上屋を重ねるようなことは控えたい。
 ただ、今から五十年あまり前、家庭裁判所調査官となって仕事に就いた当初から、現実と理論の関係について私はいつも模索し、問題意識を抱いてきた。理論は夜の海を航海する際の羅針盤や海図に例えられようか、それは絶対に必要だし、会得せねばならない。理論や技法を持たずに仕事をすることは無謀であり、無責任である。けれども、単一の理論に依拠することでは、不十分に思われた。いかに優れた理論をもってしても、現実は理論を超えていた。現実の問題はたとえ現れているのは心理的問題であっても、生物・心理・社会的な多次元の要因が輻輳して生じていることに気づいたからである。自分が目下、より所としている理論を準拠枠として、それに当てはまる事実を現実の中から拾って論理的整合性をつけて考えようとすることはできる。しかし、臨床は援助を必要としている個人を大切にすることであって、その個人の今の現実に適合する理論や技法を用いるべきなのだ。理論に現実を合わせることではない。
 その後、家裁調査官から転じて、精神疾患を病む子ども達、発達障害児、育ち治りを必要としているいわゆるパーソナリティ障害と称される青年期の人々への心理的援助(これらの人々へにかかわりを通して、自ずと多軸で観察し考え、多面的にアプローチすることの大切さと有効性に気づかされた)、親の離婚に伴う子どもの親権・監護権を決定するための民事事件の鑑定や意見書作成、重複聴覚障害者の人々への心理的援助、高齢者や社会的養護児童への心理的支援などというさまざまな領域で、さまざまな人々に出会う過程で、個別に即して、理論や技法をどう適用するか、さらに必要に応じて新たな技法を創造することの必要性を痛感してきた。そして、同じ理論や技法を用いても用いる「人」が持つ特質が援助効果に及ぼす意味の大きさについて痛切に考えさせられてきた。
 この援助する「人」が持つ望ましい要因については、これまでも度々文字にして論じてきたし、本書の中でも語られている、この「人」の要因について、抽象的な自己反省とか、自己愛的表現ではなく、公共性ある現象記述的表現を試みたものを二〇〇九年秋に開催された第五十回児童青年精神医学会の教育講演において述べた。この内容は近く刊行される学会誌『児童青年精神医学とその近接領域』に掲載される予定である。理論の折衷や技法の折衷という次元に留まらず、本当にクライエントのために役立つ心理的援助の統合とは、容易な営みではない。ここでよい、という到達点があるわけではない。常により臨床的に意味のある、質の高い統合を目指して遅遅としていても歩み続けていきたい、と思う。
 読者の皆様のご高見を戴けたら有りがたく思う。

平成二十二年早春 桜の開花を待つ頃 村瀬嘉代子