刊行に寄せて

 今回、市山康暢先生の手になる「家族療法入門」が金剛出版から刊行の運びとなりました。この小著は、佐賀の地でコツコツと現場の総合診療に携わってこられた市山康暢先生が、一人の医師として、患者さんやその家族の方々との様々の出会いに触発され、その過程で育まれた医療コミュニケーションについての思いが結実したものといえましょう。忙しい臨床の合間にこのような好著を単独で上梓された強靭な意志に驚くとともに心から敬意を表したいと思います。また、臨床医の手によって臨床医のために書かれたこの入門書が昨今の医療コミュニケーション論に一石を投じるであろうことを想像すると、本書を手にされた読者の反応を早く聞いてみたいとの気持ちが湧いてきます。
 近年、医療現場におけるコミュニケーションのあり方を問う声は、医療の受け手だけでなく、医療の担い手からも高まりつつあり、解説書・教則本・マニュアル類も決して少なくありません。しかし、本書がユニークなのは、若い臨床医が自身の体験を振り返り、自問自答するなかで会得したコミュニケーションの本質に迫る深い洞察に裏付けられていることです。本書が、単に、評価の定まった理論や教科書の紹介・梗概ではないのは勿論ですが、心理カウンセリングの先達から学びつつも、あくまでも著者が自分で納得できるまで考え抜いて執筆された文字通りオリジナルの著作ということができます。類書に見られない臨場感にあふれているのも故なしとしません。
 デカルト以来、欧米流の思考は、あくまでも世界に立ち向かう自立した「主体」を理想とする近代的人間観から出発しているため、伝統的な心理学理論も「個」の視点に立脚する傾向が強く、主‐客の相互関係性や相対主義が本格的に見直されるようになったのは、ベイトソンやレヴィストロースを先駆者とする文化人類学や構造主義が登場して以降のことといえます。著者は、家族とのコミュニケーションの重要性を説く中で、随所でこの新しい知的潮流に言及していますが、家族の意向を無視してはことが運ばない我が国の医療現場の風土を理解するうえでもまた、家族療法の基盤となる考え方としても、従来の解説書に欠けていた有用な視点であると思われます。その意味でも、本書は、集団主義(conformism)の伝統の強い我が国の現実を出発点として執筆されており、私達日本人にとって"しっくりいく"著述となっています。
 本書の構成にも様々の工夫がみられます。
 「第1章:家族との対話の必要性」では、家族との対応におけるさまざまの問題が、著者自身が家族療法と出会った経緯と重ねあわせて紹介され、知らず知らずのうちにコミュニケー−ション論の世界に誘われます。特に、近年、関心の高まっている高齢者の介護や終末期医療における家族の役割、医療訴訟リスクと家族への対応についての場面が積極的に取り上げられています。「第2章:コミュニケーションの前に」では、ダブルバインド理論で有名な20世紀の"知の巨人"グレゴリー・ベイトソンの世界や構造主義思想が取り上げられ、「第3章:コミュニケーションについての理論」で、非言語的コミュニケーションやコンテクスト、テクストとディスコース、パラドクス等のキーワードを軸にコミュニケーション理論の概要が紹介されます。
 実践編ともいうべき「第4章:家族とのコミュニケーション技術」では、「joining」のための3つのコミュニケーション技法が紹介されていますが、ここでのキーワードは"相手に合わせる"です。「第5章:面接の障壁」では、ありきたりのコミュニケーション技法が何故うまくいかないか、「第6章:どのようにコミュニケーション技術を身につけていくか」では、コミュニケーションについての経験をどのように蓄積してゆくかが解説されています。最終章の「第7章:コミュニケーションの先にあるもの」では、多くのコミュニケーション入門書に見られがちな表層的な解説への苦言とともに、ヒューマン・コミュニケーションの先に見えてくる著者の人間観が述べられています。
 一方、本書の後半を占める事例紹介は実用書としての本書の面目躍如たるところです。3編に分けて20例余りの事例が紹介されていますが、いずれも著者が直接見聞きし、或いは直接体験した事例が下敷きになっていますが、臨床医なら一度ならず直面したことのある状況が描写されていて、自然な会話な流れに思わず家族面接の現場にいる錯覚にさえ陥るほどです。
 理論から入るのが苦手な人は、まず、この事例のいくつかに目を通した上で必要に応じて前半の解説を熟読する、という読み方も可能と思われます。
 本書は、著者渾身の力作ですが、医療者側が力み過ぎることを戒め、本格的な心理カウンセリングや精神療法についてはカウンセラーや精神科医に任せるべきことを強調するなど、いかにも控え目な著者の人柄が偲ばれ、安心して本書を読み進めることが出来ます。
 この書を、診療の現場で患者・家族とのコミュニケーションに課題を感じておられる医療職の皆さんにとっての実用的入門書としてだけでなく、医療コミュニケーション論を医学生や看護学生、或いは研修医に指導する立場にある先生方にも実用的な教材として使っていただきたいと思います。

2010年3月31日 佐賀大学医学部附属病院総合診療部教授 小泉俊三