監訳者あとがき

 本書は“Overcoming Depression : A Cognitive-Behavior Protocol for the Treatment of Depression−Therapist Protocol”の全訳である。同時に翻訳出版される“うつを克服する10のステップ ユーザー・マニュアル:うつ病の認知行動療法”に対応した,セラピストのガイドマニュアルになっている。
 認知療法がわが国に導入されてまだ10年あまりだが,めざましい勢いで日本の心理療法(精神療法)の世界を席巻しつつある。認知療法は,従来からの行動療法と徐々に歩調をそろえ,認知行動療法(Cognitive-Behavior Therapy:以下,CBT)としてその地位を固めつつある。この10年ほどで,英米では,CBT関連の文献が多数翻訳されている。創始者であるBeck, A. T. の古典的著書はもとより,理論や技法の入門書,うつやパニック,摂食障害などの疾患別のテキスト,子どもの問題,さまざまな研究を網羅した文献など幅広く,CBTの翻訳時代が続いているといっても過言ではない。では今,このタイミングで本書を出版する意図は何か?
 まず第一に,著者のEmery, G. はBeckの同僚であり,認知療法の古典的名著といわれる“Cognitive Therapy of Depressin(邦題:うつ病の認知療法)”におけるBeckの共著者である。つまり認知療法(またはCBT)の創始者の1人といってよいであろう。1980〜1990年代にかけて,うつや不安に関する著書や論文を多く書いているようである。まさに,EmeryはCBTの誕生から現在までの発展と成熟を知る第一人者といえる。また本書は日本ではEmeryの初の翻訳になるだろう。
 次に,ユーザー・マニュアルとセラピスト・マニュアルが対になっていることからもわかるように,本書は臨床現場でクライエントとセラピストが共に協力してセラピーを推進していくための指針となる書物である。このようないわゆるマニュアルは今までにいくつか翻訳されているが,本書はイントロダクションの概説に続き,以降がそのまま治療面接の各セッションに対応しており,面接の進行に合わせて順次使うことができるという利点がある。
 第三の特徴は,直接のクライエントとのやりとりに役立つよう,介入例を多数挙げてあるためリアルな臨床場面をイメージでき,図表も多用することにより臨床現場でそのまま使うことができる役立つ工夫がなされていることである。
最後に,本書で謳ううつのCBTは,短期(brief)であることが強調されている。心理療法の先進国であるアメリカで,そして世界中で心理療法の短期化が叫ばれ,実際にブリーフセラピーが大きな勢力をもつに至っていることは,ここ5〜10年のわが国の心理療法業界の動きを見ても明らかである。実際Emeryは,Rapid Cognitive Tharapyを提唱しており,ブリーフ以上の短期的な方法を目指しているようである。そのRapid Cognitive Therapyのウェブサイトにアクセスしてみると,EMDRやTFT,NLPといったニューウェーブのセラピーも資格を取得して実践しているようであり,なかなかに柔軟で進取の気性に富む人物と見受けられる。
 さて,本書は先述のように章立てがそのままセッションになっている。順序としては,うつ病の理解(心理教育)に始まり,行動,感情,ネガティブ思考の扱い方(行動スケジュールと思考記録表の作り方),信念の扱い方,終結といった,一応のCBTの標準的な方法となっているが,本書の特徴を示すのは何といっても,セッション4の回避に直面することを強調していることにある。うつで意欲を失っている人に,回避してきたこと,現在回避していることに着目させ,それを乗り越えて行動を始め,思考を変えるように導く。従来の心理療法にはなじみのない,そして一般的なCBTよりもさらに積極的にセラピストが働きかけ,クライエントをリードする方法を取る。一見強引とも思えるこの方法を著者は自信をもって提言しているようで,このあたりはブリーフを標榜する著者の面目躍如たるところである。10セッション(10週間)で終結するようになっているが,時間に制限がある場合は6セッションで終結するようにもなっている。まさにブリーフというより,ラピッドな治療といってよいだろう。
 さて,日本においてこのような積極的な介入を行うセラピーが有効に作用するだろうか? 周知のように,日本では精神分析療法やクライエント中心療法などのように,セラピストは中立的立場を維持したりクライエントの言動に対して受容的,共感的に接したりする姿勢が一般的であった。一方,およそ15年程前から現在まで家族療法やブリーフセラピー,そしてCBTといった積極的にセラピストが介入する方法が急激にその勢力を伸ばしているようである。監訳者の2人は,CBTに限らず全ての心理療法においてクライエントを尊重し,傾聴し,受容的に接することが必要であると考えている。英米のCBTの主要著作を読むと,所々に治療関係への言及が見られるが,本書でも「支持的で共感的な雰囲気を作る……」といった文章が随所に出てくる。CBTでは受容的,支持的,共感的にセラピストが関わるのは当然のようである。わが国でも,得意とする受容,共感的対応に加えて,本書のような積極的な関わりをセラピストが(時と場合に応じて)とることで,セラピーをより有効に進め,クライエントの利益を高めることになると確信している。
 本書の翻訳は,まず6人の翻訳協力者が下訳し,それを2人の監訳者が原文と逐次照合して完成していった。本書の翻訳を思い立ったのは数年前になるが,監訳者が臨床,研究,本務先の職務に多忙を極め,休日も返上しての作業にあたったものの,翻訳協力者や本書の完成を心待ちにして下さった方々にも多大なご迷惑をかけた。臨床を真摯に実践している仲間や,監訳者たちの家族の励ましでようやく完成にこぎつけたことに感謝の意を表するとともに,臨床現場で本書が役立つこと,とりわけクライエントの方々の心の健康に貢献できればこれほどうれしいことはない。
・・・・・・後略

監訳者を代表して 東 斉彰