第1章 不眠治療の役割と意義より

はじめに
近年,さまざまな領域で睡眠に関する問題が取り上げられている。それは現代社会に生活する人の“睡眠”が危機的な状況にあり,眠れない人,眠らない人が増加していることにより,さまざまな弊害が生じているからである。1990年代後半に行われた疫学調査から,日本人の4〜5人に1人は不眠に悩んでいることがわかった。また,別の調査によると,最近の5年間に日本人の睡眠時間が1時間も短縮していること,就床時刻が遅くなっていることがわかった。さらに高齢化社会の到来により,睡眠障害患者はますます増加することが予想される。不眠に加え,慢性の睡眠不足に陥っている人々を合わせると,今や睡眠障害は日本人の国民病と言っても過言ではない。
夜間不眠や睡眠不足の影響として,昼間の眠気,倦怠感,頭重感,不安,焦燥感などの精神的・身体的症状がみられる。このような状態を長く続けていると,注意力・集中力の低下,生産・作業・学習能率低下につながり,さらにはミスの増加,医療事故や交通事故などの発生を引き起こすこともある。これらの負の連鎖は,社会経済問題をも引き起こし,国益の損失につながる。したがって,睡眠の問題は単に医学,医療だけの問題でなく,社会的かつ経済的な問題としても認識されるべきである。
また,近年,睡眠を犠牲にしたことへの反動がメタボリックシンドロームという形で跳ね返ってきていることが明らかになってきた。睡眠不足や不眠の予防が生活習慣病・うつ病の発症リスクを低下させ,また不眠の治療が生活習慣病・うつ病を改善し,ひいては国民の健康増進につながり,医療費削減という経済効果をもたらすと言えるであろう。
睡眠障害は,約100にも及ぶ睡眠に関する診断分類の総称である。ここでは睡眠障害の中で,日常診療の場で診る機会の多い不眠症を取り上げ,その予防と治療の意義について概観したい。
T 不眠症の定義
睡眠障害の中で不眠症(Insomnias)はプライマリーケア医を訪れることの最も多い疾患で,その人の健康を維持するために必要な睡眠時間が量的,または質的に低下し,そのために社会生活に支障をきたし,自覚的にも悩んでいる状態をいう。睡眠時間が短くても本人が満足し,心身ともに健康で昼間に正常な活動ができるなら,不眠症とは言わない。2005年に発表された診断分類ICSD-2(The International Classification of Sleep Disorders, 2nd Edition)(American Academy of Sleep Medicine, 2005)によると,不眠症は11種類に下位分類されている(表1)。不眠症に共通した診断基準として,(1)入眠困難(入眠障害),(2)睡眠維持困難(中途覚醒),(3)早朝覚醒,(4)回復感欠如(熟眠障害)などの夜間の睡眠困難を主訴とし,夜間の睡眠困難により注意・集中力の低下,疲労,不調感,気分変調といった昼間の活動性に問題が生じていることが明記されており,日中のQOL低下は睡眠障害を判断する上で重要な指標となっている。不眠症の主訴のうち,1つのタイプだけ生じることもあれば,2つあるいは3つのタイプが重複して起こることもある。このような不眠症に悩む人を治療することにより,日中QOLが上昇し,快適な日常生活を送ることができる。
U 働く世代の不眠と生活習慣病・うつ病との関連
生産性向上のためにやむなく超過勤務をしている人々や,郊外の自宅から職場まで長時間かけて通勤する人々の増加,深夜テレビや24時間のネット社会,娯楽の充実などさまざまな要因が絡み合い,また生活様式の多様化により,日本人の睡眠時間は年々短縮化傾向にある。睡眠時間と満足度の関係を調べた調査(図1)によると,睡眠5〜6時間の人たちのうち,その睡眠時間では不十分だと答えている人の方が,その睡眠時間で満足と答えた人よりも圧倒的に多いことから,睡眠時間を好んで少なくしているわけではなく,社会生活の中でやむをえず短くなっているということが推察される。
この睡眠時間の長短が私たちの健康にどのような影響を与えるのであろうか。
6〜7時間の睡眠時間をとる者の死亡率が最も低く,それよりも少なくても多くても死亡率は高くなる,という報告がある(Kripke, Garfinkel, Wingard et al., 2002;Tamakoshi & Ohno, 2004)(図2)。つまり,睡眠時間と死亡率の間にはU字型の関係がみられる。睡眠時間と肥満度(Body Mass Index : BMI)についても同様にU字型の関係がみられ,BMIは睡眠時間7.7時間で最小となり,7.7時間以上でも以下でもBMIは増加する(Taheri, Lin, Austin et al., 2004)。これには満腹の指標となるレプチン,空腹の指標であるグレリンが関係しているという報告がある。これは,レプチンの血中濃度は睡眠時間が長いほど高く,他方,グレリンの血中濃度は睡眠時間が短いほど高くなるため,睡眠が不足すると食欲が増進し過食となり,その結果,肥満,高血糖をきたす可能性を示唆している(Spiegel et al., 2004)(図3)。他にも睡眠時間と心臓疾患のリスク(Ayas, White, Manson et al., 2003),睡眠時間と糖尿病発症リスク(Gottlieb, Punjabi, Newman et al., 2005)についても同様にU字型の関係がみられる。これらのことは,睡眠時間は短すぎても長すぎても身体に悪い影響を及ぼすことを示している。
さらに睡眠不足は高血圧の発症に深く関係しているという報告も多数ある。Tochikuboらは残業で睡眠不足(睡眠時間3〜4時間)になると,翌日の日中の血圧が1日中高値を示すと報告している(Tochikubo, Ikeda, Miyajima et al., 1996)(図4)。これは,たとえ1日の睡眠不足であっても翌日の血圧上昇を招く可能性が高いことを示唆している。
小路ら(小路・迎・内村,2004;内村・橋爪・土生川ほか,2005)は30〜50歳代の勤労者5,747名を対象に生活習慣病と不眠の関連について調査を行い,高血圧患者は3人に1人という高率で不眠に悩んでいると報告している。また,不眠には寝つきが悪い「入眠障害」,夜中に何回も目が覚める「中途覚醒」,朝早く目が覚める「早朝覚醒」,ぐっすり寝た気がしない「熟眠障害」などの不眠症状があるが,これら不眠の4つのタイプのうち,高血圧症,脂質異常症,糖尿病のいずれの患者においても熟眠障害が最も多く,4人に3人の割合で認められた(図5)。このことから,生活習慣病患者の多くは不眠に悩んでおり,不眠の中でも熟眠障害を高頻度で訴えていることがわかった。
子どもの肥満についてのコホート調査(関根, 2007)でも,長時間のテレビ視聴,夜食摂取,朝食の欠食などの夜型生活とともに,睡眠時間の短縮が肥満,糖尿病,高血圧の発症につながる危険因子として提言されている。これらのように,睡眠不足や不眠の亢進とともに,生活習慣病のリスクが高まるとの報告は多数あり(Bjorkelund, Bondyr-Carlsson, Lapidus et al., 2005 ; 土井,2006;Gangwisch, Boden-Albala, Buijs et al., 2006 ; Mallion, Broman & Hetta, 2005 ; Nakajima, Kaneita, Yokoyama et al., 2007 ; Suka, Yoshida & Sugimori, 2003),不眠は高血圧や糖尿病などの誘因・増悪因子になることがわかっている。
また,不眠はうつ病の前駆症状としても広く知られており,うつ病患者の9割に不眠がみられると言われている。アメリカのChangら(1997)がジョンズ・ホプキンス大学の医学生1,053名を34年の長期にわたって追跡調査したところ,103名がうつ病を発症,そのうち13名は自殺に至り,学生時代不眠のあった者はなかった者に比べ,うつ病発症率が2倍に及んだという興味深い結果を得ている。日本は自殺率の世界上位国に名を連ねており,2007年のWHOのまとめによると,人口10万人あたりの自殺者数は24.8人で,ロシア,ハンガリー,ウクライナに次いで第4位という不名誉な結果になっている。自殺の原因・動機としてうつ病を始めとする精神疾患や睡眠の問題が深く関わっており,年々増加傾向にある自殺者の歯止めのためにも,睡眠障害とうつ病の治療促進,睡眠不足や不眠の予防は重要な課題である。
V 学校における睡眠の問題
大人たちが作り出した“眠らない社会”は青少年の世界にも波及し,中高校生の睡眠時間は大幅な短縮傾向にある(福田,2003)。2000〜2001年にOhidaら(2004)が行った全国の中高生106,300人を対象とした調査によると,平均睡眠時間が6時間未満であった生徒は全体で30.6%にも上り,学年が上がるにつれ,睡眠時間の短い学生が増えている。
さて,このような青少年の睡眠短縮の傾向は,心身の健康や社会生活にどのような影響を与えているのだろうか。同じ研究グループが2004〜2005年に実施した調査(Kaneita, Ohida, Osaki et al., 2006;兼板・中村・大井田,2006)では,有病率は不眠症23.5%,入眠障害14.8%,中途覚醒11.3%,早朝覚醒5.5%となっており,成人に比べて特に入眠障害の割合が高いことがわかる。また,この調査によると,不眠症と有意に関連していた要因は,高いものから順に「精神的健康度が低い」,「朝食をぬく」,「喫煙習慣がある」,「飲酒習慣がある」,「就寝時刻が0時よりも遅い」,「部活動に参加していない」,「男子生徒」,「大学への進学希望がない」と報告されている。
さらに内山ら(2005)によると,学年が上がるほど睡眠時間は短くなり,高校生の平均睡眠時間は6時間代前半と短く,熟眠障害が43.3%もみられた。熟眠障害には,「平日の早い起床時刻・遅い入床時刻」,「平日の短い睡眠時間」,「平日と休日との起床時刻の大きな差」,「学校外で勉強しない」,「悪い寝室環境」が強く関連していた。学校外(自宅など)では勉強していないにもかかわらず,遅くまで起きている中高校生の生活スタイルが,睡眠不足,不眠症を引き起こし,日中の生活行動のQOLを低下させている実態が垣間見える。
W 高齢者の睡眠
高齢者に睡眠障害が多いことはよく知られている。特に不眠の訴えは多く,60歳以上では約3人に1人は睡眠の問題を抱えているという調査報告がある。不眠の中でも中途覚醒や早朝覚醒の頻度が高い。高齢者の睡眠障害は,その特有の社会生活状況(社会の第一線からの引退等),加齢による脳の変化などさまざまな要因が関与して起こる。ただ,睡眠の問題はすべての高齢者に起こるわけではなく,身体・精神疾患のない高齢者では,不眠症が非常に少ないという報告もある。
わが国の総人口は2005年に戦後初めてマイナスに転じ,1億2,776万人となった。しかし,65歳以上の高齢者が総人口に占める割合は増加の一途で,2005年には20%を超えた。2050年には35.7%,実に国民の3人に1人は高齢者という事態に陥ることが予測されている。この高齢化の速度は世界的にみてもかなり速く,高齢化率はイタリア,スペインと並びトップクラスである。高齢者に対する不眠治療を含めた医療対策は今後ますます重要性が増すことになる。
おわりに
複雑化する現代社会の中で,眠らない人,眠れない人が増えている。また,うつ,ストレスといった心の問題や生活習慣病で悩む人々が増加している。まだ自覚がなくても睡眠不足を積み重ねていると,知らず知らずの間に確実に心身はむしばまれている。このような睡眠障害予備軍も含めて,不眠の予防,および不眠の治療は,睡眠障害そのものの改善だけでなく,精神的・身体的疾患の予防,治療につながることは先述した。さて,睡眠障害の予防・治療は誰が担うべきだろうか。
睡眠専門医,また従来睡眠の治療を主に担ってきた精神科医にとどまらず,各身体科医や臨床心理士,看護師なども含め,自身が専門とする領域と睡眠との関連を意識し,患者さんに対し「よく眠れていますか?」という問いかけをしていくことが大切である。
これまでストレスで眠れない,身体の疾患があって眠れないと訴える患者の多くは,さまざまな診療科を受診しても,“眠れない”ことに対して適切な治療を受けられないでいたという現状がある。睡眠の問題を第一線で受け止め,適正な指導,治療へと導入することがきわめて重要である。睡眠についての正しい知識を持ち,また睡眠障害の治療にあたり,認知行動療法を始めとする心理療法の知識は,臨床心理士のみならず,医療,学校,社会保健を担当する多くの方々に役立つものと考えられる。