まえがき

 精神分析がもたらすこころについての深い理解や臨床実践での特異な達成には大きな魅力があります。
 いかに脳機能が科学的に理解されてきたといっても、より精密な仮説の形成過程にあり、こころの発達や病理を真に解明し評価するところにはまだ何ひとつ行き着いていないのは周知の通りです。真摯な科学者ほどこの事実に正直です。どれほど批判されているとしても、またどれほど不満足なものであるとしても、精神分析ほどこころを深く知り、こころに働きかけることに手ごたえが得られる方法はいまだ存在しません。
精神分析は―実際にはまったく異なるのですが―そこに浮かび上がっているものがこころの持つ生々しさであるがゆえに、万能の輝かしい方法であるかのように思えてしまうところもあります。こころは怖ろしいほどに生(なま)なものなのです。
 こころの医学や心理学に関心を抱くようになったきっかけが若い時期に何らかの形で精神分析の考えに触れたことであったと、さまざまな機会にこれまで驚くほど多くの人が発言するのを私は耳にしてきました。そして、そこから精神分析に関心を抱き続ける人もいれば、何か―たとえば臨床での失望の経験、指導者への不満、社会思想での不一致、方法への不適合、実験科学の面白さなど―をきっかけにして精神分析から遠ざかる人もいます。私自身は前者でしたが、後者の人も多いものです。こころへの関心のリトマス紙のような機能が精神分析にはあるようです。精神分析への反応の差異の本質はこころに向けた視座の違いにあると私は思いますが、それはこれからも続くでしょう。
 ところで実際の精神分析は、その方法に特有の外的セッティング(治療構造)、臨床家に求められる内的構造(心的在り方)、技法という三つの準備とそのための訓練がなされて初めて実行されうるものです。その厳密さと高い要求水準から、その実践家は限られているのが実情です。しかしながら同時に、さまざまな医療や福祉、教育、臨床の現場や社会場面で精神分析の考えや技法を生かした実践に取り組み、成果をあげている、あるいは成果をあげたいと苦闘している臨床家や援助職の人たちが多くおられます。
 精神分析に関心を持ち続け、それを自分の現場で生かしていこうとしているそれらの人たちを、“精神分析臨床家”と私はある時期から呼び始めました。私は、その言葉の最も広い意味を採っています。すなわち、精神分析の理論や技法をこころの臨床に活用しているすべての臨床家を含みます。精神分析家、精神分析的心理療法家、精神分析的精神科医、精神分析的心理臨床家、精神分析的作業療法士、精神分析的ソーシャルワーカー、精神分析を志向する看護師、精神分析を志向する調査官、精神分析を志向する教師等、さまざまな援助職を含んでいます。
 流儀ということばには、そのやり方やそれを行う人に特異な何か本質的なものと作法が含まれていると私は思います。本書での私の意図は、私の思う精神分析臨床家の流儀を描き出してみることであり、そうした臨床家の方たちと一緒にその流儀を素朴に省察してみたいということでもあります。
 とは言っても実際のところ私は、精神分析的精神科医、精神分析的心理療法家、精神分析家と歩んできたのですから、その経験に基づいた省察をおもに重ねていくことになります。ただ作業療法士、ソーシャルワーカー、看護師、家裁調査官、教師、福祉職といった方たちとはともに働き、あるいはともに学ぶ機会を多く得てきました。それらの経験もここでの省察に含まれています。
 本書末尾の五篇は、臨床家であるための精神分析の学び方をわたくし流に述べています。流儀を身に付ける方法と言ってよいかもしれません。これらは独立したものとしても読めそうですが、全体の中に置いておくほうが自然な理解が生まれやすいのではないかと思っています。しかし、どこから読むかは、もちろん読む方の自由であり、どの読み方をしようと、そこに臨床に役立つ何かの発見があるかもしれません。そうであるなら、それが正であれ負であれ、私の望むところです。